- 組織の「掟」
今週は経済とは一見関係がないように見える「組織」、またその「組織」による意思決定というものを取上げる。世の中には「組織」というものがどれだけでもあり、また世の中全体が「組織」で構成されていると言って良い。そして「組織による意思決定」というものは、「個人の意思決定」と微妙に異なる。
上部の組織としては政府があり、そして下には省庁という組織がある。民間でも組織としての大企業があり、その下には子会社や下請業者がある。さらに各種の業界団体や宗教団体といった組織がある。
ほとんどの個人は、なんらの形で組織に属する。当然ではあるが、組織には「掟(おきて)」というものがある。成文化された法律や社内規定だけでなく、他に組織独特の「決まり事」や「たしなみ」と言ったものがある。また宗教団体なら「戒律」というものがある。
ある銀行には「行員はアメ車を持たない、派手な行動を慎む」といった個人の生活まで規制する内規がある。また公務員には民間人と酒席を共にしないという決まり事がある。これらの「掟」の類は、組織が損害を被ったり、組織の崩壊を招かないためにあると言って良い。
組織に属する者は、その組織の哲学に反する発想を持たないようにする。これも一種の組織の「掟」である。仮にその哲学がおかしいと感じても口に出さない。
例えば日銀マンの発想の根底には「物価の安定、つまり円の価値の維持」という哲学がある。財務当局なら「財政の健全化」である。また禁欲的な宗教団体の人々は、禁欲的な戒律に縛られた発想になる。
外部から見ればそれらの哲学の中には「おかしい」ものや「時代遅れ」のものが多々ある。しかし間違っているのではないかと気付いていても、組織自体が自ら哲学や発想を変えることはほとんどない。たしかにそれらを変えることによって、組織の存在意義がなくなったり、組織崩壊に繋がることが有り得る。
会社なら30年、国なら60年といった組織の寿命説がある。しかし民間企業という組織は、業態の在り方を変えることによって生き延びることが可能である。例えば東レは、昔、レーヨンを製造していた会社であったが、今日は炭素繊維などの素材メーカーに変身している。これも民間の組織には「利益追求、会社の存続」といった組織の「掟」を越える規範があったからであろう。「うちの会社はレーヨンしか作らない」と言っていたなら今日の東レはなかった。
ソ連は革命から60年でガタガタになった。日本は明治維新から60年で軍国主義国家になり最終的に崩壊した。今日、戦後から60年以上経ち新生日本も難しい段階に来ている。
組織について興味深いことがある。組織の「掟」にこだわりより原理主義的なのは、組織の上層部ではなく、むしろ下の者や若手である。またエリートではなく傍流の人々の方がより原理主義的であることが多い。このことは色々な組織で見られる。
崩壊前のソ連政府の幹部は、社会主義体制の限界を認識し「理想の国はスウェーデン」と話し合っていたという。その頃、下っ端の共産党員は原理主義をむき出しにして国民を扱い、人々に接していた。厳しい戒律の新興宗教団体の一般信者が禁欲的な修行に励んでいる一方で、幹部が毎晩酒盛りをやって騒いでいることもある。推理小説「くたばれ健康法!(アラン・グリーン)」はそのような新興宗教団体を扱っている。以前、日本で事件を起した新興宗教団体も似たことをやっていた。
組織の幹部は、組織の「掟」というものが世間では通用しないとか間違っていると薄々気付いているものである。したがって組織存続のため、世間の常識との妥協や折り合いも必要と組織の幹部は考える。しかし彼等も決して組織の「掟」を否定する発言は表立ってしない。もし口に出せば、最高幹部といえ組織内で孤立する。
一方で世間との妥協をあくまでも拒否するような、上から下まで原理主義者で固まった組織がある。しかしこのような過劇的な組織は、早々と崩壊し消滅する。ただこのような組織は稀である。
- 旧大蔵省的感覚の復活
日本の官僚組織についてもう少し述べる。人々は、官庁に対して固定したイメージを持っている。例えば財務省は「常に増税と歳出カットを狙っている」し、日銀は「常に物価上昇を心配し金融緩和に消極的」といったものである。このような先入観を反映し、上から下まで全ての官僚が全く同じ考えと発想を持っていると思い込んでいる。特にマスコミは、何でも単純化した方が好都合なので、このような見方を助長する。
しかし前段で述べたように、筆者は組織にはかなり考えの異なる人々が混在していると思っている。例えば旧大蔵省出身の政治家の場合、積極財政を唱える人々がいる一方で財政規律を重視する者がいた。福田赳夫氏、宮沢喜一氏などの元総理は積極財政を展開した。これに対して大平元総理などは財政再建に強くこだわった。これは旧大蔵省の官僚の中にも財政に対する思想の異なる人々がいることを示している。
面白いことに、積極財政を唱えたのは大蔵省の次官経験者や省内で将来を嘱望されていた、いわゆるエリートばかりである。一方、大平元総理のように財政均衡にこだわる人々は、少なくとも大蔵省時代はエリートとは言えない存在であった。
また大蔵省を飛出し、財政再建を声高に主張している元官僚の評論家達も省内でエリートであったか怪しい人ばかりである。つまり財政再建という組織の「掟」を頑に守ろうとする原理主義者は、大蔵省の中でもむしろノンエリートに多かったと感じられる。
官僚の原理主義が暴走するととんでもないことが起る。速水日銀総裁は「ゼロ金利解除」を強行して顰蹙をかった(速水総裁はこれ以外にも色々やっている)。しかし「ゼロ金利解除」は、従来の日銀の方針(原理主義)からすれば当然の措置であった。
大蔵省は、橋本政権時代、金融機関が多額の不良債権を抱えているのに財政再建策を強行し、急激な景気後退を招いた。このように官僚組織の原理主義が突出するとろくなことがない。へたをするとバランス感覚を欠いた原理主義は、組織自体を崩壊させる可能性がある。ちなみに速水氏は日銀出身であるが、日銀時代、日銀でエリートであったとは思えない(このような人物がどうして日銀総裁になったのか不思議な話である)。
外から見ていると、大蔵省から財務省に変わって、方針がより原理主義的になったと感じられる。例えば震災復興の話が出ると唐突に復興増税の話が飛出した。今日の日本の経済状況を考えたら、明らかにバランスを欠いた発想である。国の借金が900兆円だ、1,000兆円だと言っているのに、わずか10数兆円の復興予算についての財源を真っ先に問題にするなんて考えられないことである(またこのような事をやっているから円高が進むのである)。
これは大蔵省から財務省に変わる前、バランス感覚のある大蔵官僚の多くが追出されたことが影響していると筆者は思っている。当時、過剰接待を受けた官僚が問題になっていたのである。しかし民間から接待を受けるということは、それだけ広い情報と見識を得ることになるという見方もできる。要するにバランス感覚が養われると考えられる。むしろ外部との接触を断ち、内部に閉じこもり、非常識な財政学者としか交流がないような官僚が、より原理主義的になるのは当り前と考える。
筆者は旧大蔵省的感覚の復活を望む。昔の大蔵省の方がましだったという話である。とりあえず財務当局がバランス感覚を取戻すことが先と考える。とうとう今日、年金支給開始が68歳とか70歳といった現実離れした話まで飛び交うようになった。
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