経済コラムマガジン 平成9年2月10日より
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09/5/25(570号)
裁判員制度に一言

  • 裁判員制と陪審制
    今週は、先週の続きを予定していたが、急遽、裁判員制度を取上げることにする。もっともこのテーマも先週号からの話とは無縁ではない。裁判員制度についてはそのうち述べるつもりでいた。しかしとうとうこれが実施されるということで今回取上げることにした。

    筆者は、とんでもないこの制度は、法律が成立しても最終的には実施されないのではとずっと思っていた。法律は出来たが実施されなかった法律としては、橋本政権の財政構造改革法がある。この裁判員制度については一部の熱心な推進者を除き、ほとんどの人々が反対している。このような制度が本当に実施されるなんて異常な事態である。政治家は一体何をやっているのかと思われる。


    この法律は小泉政権下でほとんど議論がないまま成立したものである。小泉政権では、郵政改革法ばかりに注目が集まり、一方で問題の多い法律がどんどん成立していた。裁判員制度もその一つである。

    興味本位で一度くらい裁判員を経験してみたいと思う人はいるであろうが、大半の人々は裁判員にはなりたくないと思っている。政治家も安易に成立させたこの法案がとんでもなく不評と知り、施行にあたり運用を大幅に手直ししている。この結果、実際に行われる裁判員制度は何がなんだかさっぱり分らないものになった。このいい加減さがまた批難の対象となっている。


    日本には、何か問題になると、日本の実情を考えず欧米に実施されている制度を「猿真似」することが開明的と思っている浅はかな人々がいる。大学センター試験の前身である共通一次試験は、フランスのバカロレアを真似たものであった。これは評判が悪かったが、コンピュータ設備などの投資を行っていたため、止められずに続けられた。今日の大学センター試験もたいして変わらない。

    また戦後まもなく欧米の真似をしてサマータイムが実施されたが、これも評判が悪くすぐに中止となった。今回の裁判員制度は、明らかに欧米の陪審制を真似たものである(同じ陪審制でも米国と欧州ではかなり違うが)。ところが日本でも、戦前、この陪審制が採用されたことがあった。しかしこれも問題が多く使われなくなった。

    ところがこのような日本に合わない制度を、執拗に復活させようという頑迷な開明インテリが日本には結構いるのである。裁判員制度の推進者は、本来は陪審制の導入を狙っていた。しかしいきなり陪審制とは行かないので、今のところ裁判官の関与が大きい裁判員制度で妥協しているのである。


    裁判員制・陪審制のどこが優れているのか色々な屁理屈が繰出されるが全く説得力がない。裁判官に市民感覚や常識に欠けるというばかげた理由を挙げている者がいる。本当に日本の裁判官の資質が問題なら、裁判官の採用方法や教育制度を改善すれば良いのである。

    そもそも裁判官を始め法曹関係者の市民感覚だけを問題にするのが奇妙である。むしろ筆者は「市民」と言われている人々の方が怪しいと考える。だいたいマスコミに操作されやすい「市民」が人を裁くなんて最悪である。またこれだけ評判が悪い裁判員に進んでなろうという人はほとんどいない。むしろ裁判員になろうという者が、片寄った思想の持ち主や巨大宗教団体の関係者が多くなる可能性があり、かえって危険である。


    アメリカン・フットボールのスター選手シンプソンの殺人事件の裁判で、米国の陪審制が注目された。この裁判では金持のシンプソン氏が、辣腕の弁護士を雇い、無罪を勝ち取ったといった印象が強い。この事件では、人種差別問題を巧みに取上げたり、陪審裁判を開催する場所を選ぶなどした弁護士の才覚によって無罪となったと皆は思った。

    シンプソン事件では、さすがに米国民も陪審制に問題が多いことに気ずかされたはずだ。このような欠陥制度を日本に導入しようというのだから、推進者の頭がおかしいか、隠された別の思惑があると考えるべきである。裁判に健全な市民感覚を取入れるというなら、政治を通じ、裁判行政を改善することが本筋である。


    だいたい筆者は、陪審制なんて未開な裁判制度と思っている。米国の開拓時代の遺物である。交通の便が悪かった時代、広い米国では、法律の専門家である裁判官による裁判なんて容易に開くことができなかったと考えられる。したがって犯罪者を裁くのは、法律の専門家ではない地域住民が中心とならざるを得なかったと思われるのである。

    つまり陪審制はこの名残りと考える。米国でこのような未開な裁判制度が残っているのは、陪審制を有益と考える人々の力が強いからと思っている。具体的には有能な弁護士を雇える金持と、裁判をビジネスと捉えている人々である。


  • セガに対する特許訴訟
    日本で密かに裁判員制(できるなら陪審制)を導入しようとした人々がいた。何故か長い間これが誰なのか不明であった。真相を誤魔化すためなのか意識的にガセネタが流されたような気がする。当初、この制度は裁判官の負担を減らすものという解説があった。裁判員制度は裁判官にとって極刑判決などのプレッシャーを軽減させるというのである。

    真相は、日弁連の幹部と一部の弁護士が熱心に推進していたようである。それなら筆者も納得できる。どうも弁護士を増やすという行政サイドと、それに反対する一部の弁護士との間の妥協の産物が、裁判員制度と筆者は理解している。


    日弁連の幹部は時代の遺物的な左翼的思想の持ち主が多い。彼等は観念的な言動が特徴である。これらの人々と裁判をビジネスと捉える弁護士が組んだのが、今回の裁判員制度の導入と筆者は認識している。両者は水と油のように相反するように思われるが、意外と両者は結び付きやすいのである。

    経済の世界でも、経済改革や構造改革によって利益を得る者と、観念的に財政再建、構造改革、環境などを主張する人々は結び付きやすい。米国における金融の規制緩和や、日本における郵政改革の顛末を見ればその事がよく分る。ただ裁判員制度が刑事事件に止まっている限り、あまりビジネスにならないであろう。

    筆者は、裁判員制度の推進者の本当の狙いは、米国のような民事事件まで広げた陪審制と見ている。今回の裁判員制度はそのためのワンステップである。陪審制は、裁判をビジネスと捉える野心的な弁護士にとってビジネンスチャンスを広げるものである。


    筆者が陪審制で興味を持つのは、シンプソン事件ではなく、1992年のセガとジョン・コイル氏との特許紛争である。ゼガや任天堂は、米国で販売しているゲーム機がジョン・コイル氏の特許に抵触すると訴えられた。まず米国の裁判制度が異常と認識している任天堂USAは、わずか4,000万円を払ってさっさと和解した。

    ところが「それはおかしい」と、セガは果敢と裁判を受けて立った。しかしセガは結局これに敗訴し、最終的に57億円もの和解金を払うはめになった。ジョン・コイル氏が持つ特許は「低周波音声信号を使ったカラー画像表示技術」というもので、筆者は音楽が変わるのに合わせて画面が変わって行く仕組という印象を持った。そもそも特許になること自体信じられない種類の技術である。任天堂の和解金が4,000万円というのもうなずける。


    判決を左右したのが陪審制であった。当時、米国政府は、企業が国際的競争力を失っている現状を憂慮し、知的所有権を使った米国企業の保護政策を推進していた。それもあってか一般の米国民も知的所有権に対して敏感になっていた。そしてこれがセガの陪審裁判で有効に働いた。

    これらの状況をうまく利用したのがジョン・コイル氏の弁護士であった。しかしもし陪審制でなかったら、少なくともセガは57億円もの巨額の和解金を払うことはなかったであろう。この訴訟騒動で、筆者は米国で100万人もの弁護士が生活できていることを改めて納得させられた。


    最初からジョン・コイル氏がセガや任天堂が自分の特許を侵害したと訴えたわけではない。おそらく彼は全く気付いていなかったと思われる。訴訟することを持込んだのは弁護士である。米国で広く行われている成功報酬方式で裁判を起こすことを奨めたのである。

    このような弁護士は米国の特許法について熟知している。またこの弁護士は米国の特許法の欠陥(同じ先願方式でも、米国の場合、米国内だけの特許なら公開する必要はない)を活用している。さらにこの種の弁護士は素人の陪審員を説得する技術に長けている。彼等は裁判を正義のためというよりビジネスとして捉えている。だいたい完璧な法律や裁判制度はない。この現状を考えると、陪審制は、このような不埒(ふらち)な弁護士に恰好の舞台を提供するようなものである。



来週は、今週予定していた「ここ20年くらいの間に経済学者やエコノミストの視野が極端に狭くなったこと」を取上げる。

読者の方から下村治氏についてどう思うかという質問があった。下村氏は池田政権時代のブレーンであったが、第一次オイルショック後あたりから縮小均衡主義に変わったと一部で言われる人物である。5月の文芸春秋にこのような下村氏を取上げた神谷秀樹(みたにひでき)氏の文書が載っていたことを筆者も承知している。これらについてはそのうち取上げることにしたい。



09/5/18(第569号)「半径10mの関心」
09/5/11(第568号)「保護主義と国家」
09/4/27(第567号)「中央銀行の国債購入」
09/4/20(第566号)「年金制度改正の私案」
09/4/13(第565号)「筆者の経済対策案」
09/4/6(第564号)「経済対策に必要な条件」
09/3/30(第563号)「政府紙幣論議の結末」
09/3/23(第562号)「GDP統計のマジック」
09/3/16(第561号)「リーマンショックの影響」
09/3/9(第560号)「筆者なりの仮説」
09/3/2(第559号)「政府紙幣(貨幣)論の評判」
09/2/23(第558号)「政府紙幣(貨幣)への巧妙な反対論」
09/2/9(第557号)「政府紙幣(貨幣)論の急な盛上がり」
09/2/2(第556号)「続・構造改革派の変節」
09/1/26(第555号)「マスコミの論調は過渡期」
09/1/19(第554号)「今年の為替と株価の動向」
09/1/12(第553号)「09年今年の景気」
08/12/22(第552号)「デフレ経済の本質と克服」
08/12/15(第551号)「ポールソン財務長官の退職金」
08/12/1(第550号)「デフレ発生のメカニズム」
08/11/24(第549号)「デフレ経済を語る」
08/11/10(第548号)「デフレ経済の足音」
08/11/3(第547号)「クライン博士の本心」
08/10/20(第546号)「ノーベル経済学賞の流れ」
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08/10/6(第544号)「マンキュー教授の分類」
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08/2/18(第515号)「またもや虚言・妄言・・その3」
08/2/11(第514号)「またもや虚言・妄言・・その2」
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08/1/21(第511号)「サブプライム問題の本質」
08/1/14(第510号)「08年今年の景気」
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07/12/10(第508号)「「金余り」と日本政府」
07/12/3(第507号)「「金余り」と商品相場」
07/11/26(第506号)「原油価格に見るバブル」
07/11/19(第505号)「金融当局の敗北」
07/11/12(第504号)「「金余り」の徒花」
07/11/5(第503号)「米国のサブプライム問題」
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07/4/9(第477号)「構造改革派とカルテル」
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06/9/18(第451号)「ポスト小泉の経済と対米外交」
06/9/11(第450号)「ポスト小泉の対アジア外交」
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06/7/17(第445号)「宗教と哲学への入門」
06/7/10(第444号)「劣勢のケインズ」
06/7/3(第443号)「トービン税について」
06/6/26(第442号)「自由放任(レッセ-フェール)の経済」
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06/6/12(第440号)「筆者のニート対策」
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06/4/17(第433号)「格差とマスコミ」
06/4/10(第432号)「官僚の力と限界」
06/4/3(第431号)「日経新聞のダブルスタンダード」
06/3/27(第430号)「金融政策の失敗の歴史」
06/3/20(第429号)「量的緩和解除の波紋」
06/3/13(第428号)「コンビニ弁当の話」
06/3/6(第427号)「GDPギャップのインチキ推計法」
06/2/27(第426号)「潜在GDPとGDPギャップ」
06/2/20(第425号)「労働力と経済成長」
06/2/13(第424号)「大衆社会における経済論議」
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