- 科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者
最初に、自民党の上げ潮派(構造改革派)の政治家が大変な誤解をしていることを指摘する。先週号で述べたように自民党の構造改革派が「上げ潮派」と呼ばれるようになったきっかけは、ローレンス・R・クライン博士との接触からと筆者は理解している。しかし本来、構造改革派が経済学者と接触するならクライン教授ではなく、例えばシカゴ大学の経済学者であろう。実際、この話を聞いた時、筆者も非常に驚いた。
クライン博士は構造改革派と縁のある学者グループとは対極の経済学者である。まず06/7/3(第443号)「トービン税について」で述べたように日本には「新古典派の経済学者」という言葉についての誤解がある。本来、新古典派経済学はケインズ経済学に対抗するものとして認識されている。しかし新古典派にも色々ある。
第二次大戦後、ケインズの直系の弟子達はケインズのモデルを定式化したり拡張を試みた。その中でサミュエルソンやソローは、有効需要が不足する時はケインズ理論が有効であるが、経済の状態が良くなり完全雇用・完全操業が実現した以降は、ケインズの論争の相手である古典派(新古典派と呼ぶ場合もある)の経済理論が有効になると主張した。また短期的にはケインズ理論が正しいが、長期的には古典派の経済理論がより適切と言い方もある。この彼等のこの試みを「新古典派綜合」と呼ぶ。クライン博士もこのグループに属する。
一時期、これらの一群の経済学者は新古典派と呼ばれた。しかしその後、ケインズ政策を完全に否定する経済学者のグループが登場する。マネリストであるフリードマンの弟子達である。彼等は、古典派経済学により忠実であり、ケインズ理論に否定的というよりバカにしている学者グループである。彼等の経済理論は構造改革派の支柱になっている。
サミュエルソンやソローがネオクラシカル(新古典派)と呼ばれるのに対して、フリードマンの弟子達は自らをニュークラシカル(新古典派)と称することがある。このネオクラシカルとニュークラシカルの間には大きな溝があり、両者の間で長年激しい論争が続いてきた。
ケインズの流れを汲むネオクラシカル(新古典派)は、政府が経済に関与することを否定しない。特に経済に異常をきたした場合、政府の積極的な経済政策を求める(この点はケインズと全く同じ)。一方、ニュークラシカル(新古典派)は政府の経済への関与を徹底的に嫌う。ニュークラシカルの主張は規制緩和と小さな政府である。
日本での経済学の最近までのブームはニュークラシカル(新古典派)である。ノーベル経済学賞の受賞者もこのグループから多数出ている。このためか日本の学生や官僚が、ニュークラシカル(新古典派)の総本山であるシカゴ大学にこぞって留学している(筆者はシカゴ大学を上九一色村となぞらえている)。
日本の場合、経済学者やエコノミストだけでなく、日経新聞やマスコミ人もニュークラシカル(新古典派)の影響を強く受けている。このせいか日本ではケインズ政策を「またバラマキか」「時代遅れ」とバカにする風潮が強い。また積極財政を唱える者をオールドケインジアンと嘲笑する。これもケインズに対するニュークラシカルの論調をマネているのである。したがって自民党の構造改革派が教えを乞うとしたならネオクラシカル(新古典派)のクライン博士ではなく、ニュークラシカル(新古典派)の経済学者である。
米国に経済学の教科書の著者でマンキューという有名な経済学者がいる。マンキュー教授が「科学者とエンジニアとしてのマクロ経済学者」という小論文で両者の分類と説明を行っている。この論文が両者の論争を理解する上で助けになるので簡単にご紹介する。
マンキュー教授は、ニュークラシカル(新古典派)を「科学者」とし、一方、ネオクラシカルの系統の経済学者を「エンジニア」に例えている。またニュークラシカル(新古典派)を文字通り「新古典派」と呼び、ネオクラシカルを新ケインズ派と呼んでいる。もちろんクライン博士は新ケインズ派の有力メンバーである(マンキュー教授は新ケインズ派を三波に分け、クライン博士をサミュエルソンやソローと同じ第一波の経済学者と見なしている)。
つまり自民党の構造改革派は、本来はシカゴ大学の新古典派の学者の元に行くべきところを、間違って新ケインズ派のクライン博士に教えを乞うたのである。そもそも新ケインズ派は構造改革派の天敵であり、バカにする対象のはずである。とんだ勘違いである。しかしこんなことがあったせいか上げ潮派(構造改革派)の構造改革路線が見えなくなり、とうとう彼等は積極財政派と違いがなくなったのである(霞ヶ関埋蔵金を使って財政支出を行うか、国債を発行して積極財政を行うかの違いだけになった)。
- 全部がケインジアン
マンキュー教授の分類は面白く、両者の特徴をよく表している。新古典派は科学者であり、あるべき資本主義経済の形を探究している。彼等の結論は常に「自由放任(レッセ-フェール)の経済への回帰」である。つまり市場重視である。したがって政府の経済への関与を徹底的に忌み嫌う。したがってケインズの有効需要創出政策なんてとんでもないことである。
一方、新ケインズ派は、エンジニアだから現実の経済に関心があり、そこで起る問題の解決に興味を持つ。しかし解決手段がケインズの教科書にない場合もある。そのような時には他のものにも手を出す。例えば先週号でクライン博士が、「The Rising Tide」の中で90年代初頭の低迷する米国経済を強化するため理科系の教育の充実を主唱していることを紹介した。これなどは典型的な供給サイド強化の考えであり、本来新古典派の言い出しそうな事である。しかし博士はケインジアンであり決して新古典派ではないのである。
そもそもケインズ自身がエンジニアであり、現実の経済に興味が深かった。ケインズは株式投資もやり、「株価の決定を美人投票」になぞらえた話は有名である。また各国の政府の政策顧問になったりIMF設立に尽力した。サミュエルソンも同様である。このように現実の経済に関わろうとすることがケインズ派の特徴とマンキュー教授は述べている。それに対して「象牙の塔」にこもって経済理論の精緻化に励んでいるのが、科学者である新古典派の経済学者である。
エンジニアである多数の新ケインズ派の学者が、米国の政府機関や世界機関で仕事をしている。例えばスティグリッツやバーナンキが有名であり、マンキュー教授自身もワシントンで2年間仕事をしている。そして重要なことは、意外にもマンキュー教授が、新古典派の経済学者が政府機関で働いているのを見たことがないと言っていることである。つまり共和党政権、民主党政権を問わず経済学者が経済政策に関わっているとしたなら、全て新ケインズ派ということである。
たしかに昔フリードマンがマネーサプライを操作する金融政策を提言したことがある。しかしこれがうまく行かなかったことを本誌で触れたことがある。またフリードマンはこの他にもいくつかの政策提言を行っている。このように彼は新古典派の中では例外的な存在であった。しかしこれもフリードマンが元々ケインズの弟子であることを考えると(ケインズの他の弟子とうまが合わなかったという話がある)、なんとなく納得がゆく話である。
そもそも純粋な科学者である今日の新古典派の経済学者に、現実的な経済政策を求めることが無茶である。机上の経済と現実の経済は違うのである。例えば今日の金融不安に対する処方箋を聞けば、彼等はノイローゼになるか、あるいは「経営状態が悪い金融機関は劣っているのだから市場から退場させるべき」ととんでもないことを言い出しそうである。エンジニアでありケインジアンであるベン・バーナンキだからこそ、何とか対処しているのである。
このように米国では経済政策の決定にケインジアンが活躍している。ところが何を勘違いしたのか、今日の日本では経済政策に関わる経済学者の多くが構造改革派であり、新古典派に影響を受けた者ばかりである。むしろケインジアンと目される経済学者が追い払われているか、あるいは従来の主張を隠さざるを得ない状況に置かれている。
そして本来なら科学者として「象牙の塔」にこもって研究しているべき新古典派系の経済学者が、現実の経済について出しゃばっている。日本の経済政策がおかしくなるのも当然である。また橋本政権時代あたりから経済に関して「虚言・妄言」が極端に増えたのもこれが原因であろう。
これも日本人が、完全にケインジアンであるサミュエルソン(クライン博士を含め)などの経済学者を、いまだに新古典派と誤解していることに端を発していると筆者は見ている。つまり米国で活躍している有名な経済学者のほとんどは新古典派であり、ケインジアンは時代遅れでいなくなったと勘違いしているのである。事実は正反対である。
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