- 非武装中立論
先々週号に話をしたように日本における国防・防衛論議は低レベルであり、低次元である。この大きな原因は「日本は覇権国ではなくなった」「日本は実質的に米国の保護国の状態が続いている」という現実である。覇権国でない日本のような国は自主外交、自主防衛を考える必要性が小さい。身近に戦場がなければ、そのような国の国民が「平和ボケ」の症状に陥ることは十分あり得る。
「平和ボケ」を象徴する発想が旧社会党の「非武装中立論」である。非武装中立論については社会党元委員長石橋政嗣氏の「非武装中立論(1980年・・2006年9月復刊)」という著書が有名であるが、この非武装中立論自体は昔からの社会党の党是であった。石橋政嗣氏の主張は、社会党が政権を取った場合、一時的にも自衛隊の存在を認めるといったむしろ柔軟な面があった。
石橋政嗣氏自身は社会党の左派に属していたが、政治家のせいか多少なりとも現実的であった。この点が党内の純粋な非武装中立論論者から異端と批難を受けた。石橋委員長の後を継いだ土井たか子執行部はまた強硬派に左旋回した。
本来の社会党の非武装中立論は、自衛隊の存在や武力の保有を一切認めないといった強硬なものであった。そしてこの極論が左翼系マスコミや日教組の働きによって国民の間に浸透した。長い間、国防・防衛論議でさえタブー視された。そして自衛隊の存在自体が「平和」への挑戦と見なされた。
強硬な非武装中立論に基づく論調は世間で幅をきかせ、自衛隊は肩身の狭い存在であった。時には自衛隊は嘲笑の対象にさえなった(「自衛隊に入ろう」という自衛隊を皮肉った反戦フォークソングがヒットしたくらい)。今日、無駄な財政支出の代名詞は「公共事業費」であるが、当時は防衛費こそが無駄な財政支出の代表とマスコミは喧伝していた。いつの時代にもマスコミは世論をミスリードするものである。
日本は戦後、戦争とは直接的には縁のない時代を長く過ごした。中には、日本は平和憲法を持ち軽武装だから平和が続いていると主張する者まで現われた。さらにこれをもう一歩進め、非武装中立になれば、もっと確実に平和が続くという夢想が説得力を持った。このような状況が続いては、国民が平和ボケするのも当然である。
しかしこの「非武装中立論」には裏があったとする話がある。元々の強硬な「非武装中立論」は社会党の事務局が立案したものだと言うのである。社会党は、日本の社会主義・共産主義革命を目指した政党である。ところが当時の日本の社会主義・共産主義勢力の力は貧弱であり、単独ではとても社会主義・共産主義革命は無理であった。そこで考えたのがソ連の占領による日本の社会主義化・共産主義化である。
実際、東欧諸国はソ連の占領下で次々と社会主義化・共産主義化した。社会党の事務局もこれをヒントに、日本の社会主義化・共産主義化を考えたと言うのである。そしてソ連軍の日本占領政策に邪魔になるのが、日米安全保障条約と日本の自衛隊であった。彼等はその目的を「非武装中立論」という美名のオブラートで包み、自衛隊の解体・廃止を目指したという話である。当時の社会党を考えると、筆者はこの説は全くのデマとは考えない(事務局は夢想家の集まりで、社会党の政治家の方は多少なりとも現実的。何か今日の経団連に似ている。)。
この話が本当なら(かなり高い確率で本当と考える)、社会党の「非武装中立論」はとんでもない発想(ソ連占領による日本の社会主義化・共産主義化)が根底にあったと言える。しかし当時の日本では、色々な平和勢力と結びつき、この「非武装中立論」はもてはやされた。マスコミも自衛隊を取上げる時には、意識して自衛隊を否定的に扱った。
今日の日本の国防・防衛論議においても、いまだにこの「非武装中立論」の残滓(ざんし)みたいものが見え隠れする。旧社会党の大勢においても非現実的と見なされるようになったはずの「非武装中立論」が、ちゃんと生き延びているのである。さらに驚くことに、自民党の一部にもこれに近い考えを持つ政治家が散見されるほどである。
- やはり「守るもの」は何か
最後に筆者の国防・防衛論を簡単に述べたい。しかし前もって断っているように、筆者は専門家ではないので、具体的な国防・防衛上の戦略・戦術について述べることはできない。せいぜい先々週号で行った指摘に尽きる(日本ではまず「何から何を守る」という議論が必要)。つまり日本ではこの根本的な議論が欠けているのである。
日本においては暗黙のうちに「領土(当然、領土上の国民の財産や経済権の及ぶ範囲の経済利益を含む)と日本人の生命」が守るものとして議論されていると考える。しかしこれらは守るものの最低線である。ところが日本ではこの最低線でさえ危ういのである。
例えば東シナ海のガス開発である。日本は日本の経済権が及ぶガス田の開発権を主張し、中国がこれを侵害していると訴えている。そこで日本もこの海域のガス開発を進めようとしている。たしかにこれこそ日本固有の財産の防衛ということになる。ところが驚くことに、開発したガスをどうするのか何も具体的な案がないのである。
ガス田開発で出てきたガスをどのように処理するのか、全く誰も考えていない。沖縄までパイプラインを引くとでも言うのか?つまりただ「中国が日本の権益を侵害している」と勇ましく声高に叫んでいるだけなのである。一方、中国は既に対岸までパイプラインを引いている。だから中国が「ガス田は共同開発しましょう(もちろん中国側に有利な形で)」と日本に持ち掛けて来ているのである。
完全に中国は日本の足下を見ているのである。これも日本の資源防衛戦略がおそまつ(おそまつと言うより「無い」と言った方が正確)だからである。こんなところにも日本の平和ボケの症状が見られる。筆者ならガス田開発に併せて「尖閣諸島に天然ガスの液化工場の建設を行う」とか「天然ガスの液化設備を持つ船の建造を行う」というアイディアを提出する。
このように日本での国防・防衛論議は、「守るもの」に関して最低線でも怪しい。ましてや「領土、生命」を越えたものについては、意見の集約もなされようとしていない。筆者は「何を守る」かの議論を行えば、自ずとどのような国防・防衛体制をとれば良いか見えてくると考える。
例えば、最悪のケースでは日本人全員の命は守ることは無理な場合が想定される(当然、大量破壊兵器による攻撃を想定)。その場合、次善の策としてなるべく多くの人命が助かる形を考えるという意見が出るはずである。その観点からは、今日のような人命だけでなく経済資源・文化・情報の東京への一点集中は極めてまずい形である。実際、先進国を見渡しても日本のような一極集中型の国はないのである。
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