- 経済理論と神の存在
基本的な西洋人の思考は二分法である。しかし絶対者である「神」の存在に関しては、三分法で捉えた方が理解しやすいことを先週号で説明した。「神」の存在を肯定する有神論と「神」の存在を否定する無神論、そしてもう一つ「神はいてもいなくても良い」「神はいるかもしれないが、時として神も間違える」と絶対者である神の存在に関してあいまいな考え方である。
人間の存在をテーマにする実存哲学の世界もこの三分法が適用される。キルケゴールやヤスパースの有神論的実存哲学とサルトルの無神論的実存主義が対置される一方で、神の存在にことさらにはこだわらないハイディガーのような立場がある。
先週号で述べたように経済学では、有神論が古典派やニュークラシカル(新古典派)であり、無神論がマルクス経済学である。そして「神はいてもいなくても良い」「神はいるかもしれないが、時として神も間違える」とするのがケインズ経済学である。
古典派やニュークラシカル(新古典派)は「神の見えざる手」を絶対視し、政府などの不純な手が経済に介入することを断固拒否する。政府の役目は警察と軍隊に限定し、公共事業には闇雲に反対する。税金に関しては「無税国家」が理想である。またあらゆる政府による規制に反対し、既存の規制の撤廃を主張する。まさしく「小さな政府」主義である。
マルクス経済学は、資本主義経済には致命的な欠陥があり、資本主義国家はいずれ共産主義国家に移行すると予測する。まず言えることは共産主義・社会主義国家の経済は計画経済であり、神の存在する余地がない。存在の余地がないというより、より正確には神の存在が邪魔と考える。
実際、革命が成った共産主義・社会主義国家においては、程度の差はあるが宗教が弾圧されたり、活動が制限された。しかし宗教が否定されたお陰で、民族間の争いというものが抑制された。ソ連やユーゴスラビアといった複雑な宗教対立を抱えた国がなんとなくまとまっていられたのも、無神論に立脚する共産主義の理念のおかげである。またこれは共産主義運動が国際的な広がりを持っていたことの側面でもある(少なくともソ連で共産主義革命が成就した当初は)。
一方、ケインズ理論は「神」の存在と縁が薄い。資本主義経済では有効需要の不足といった不均衡が発生することをケインズは理論的に解明し、さらにそれを放っておけば経済が縮小均衡に陥ることを指摘した。この事態に対して、英知を持った政府が有効需要創出といった不均衡を是正する政策を行うことを主張する。
このようにケインズは、ことさらに「神」の存在を肯定したり否定したりすることはなかった。ただ「神」ではない政府というものが、はたして英知を持っているかどうかがしばしば問題にされる。公的な支出が一部の者に片寄ったり、税金の取り方に不平等が生じることは十分ありうる。これらが国民の不満となって、ケインズ政策そのものが否定されることがある。しかしこのことはケインズ理論が正しいか、あるいは間違っているかとは違った次元の話と筆者は考える。
このようにあいまいな立場のケインズ理論は、左右から攻撃の対象になった。特に日本では歴史的にケインズ的政策を行った政治家は、悪いイメージのレッテルを貼られている。貨幣の質を落とし、通貨の発行量を増やした政治家は、インフレ政策を行ったとか、賄賂まみれと非難されてきた。また高橋是清は、ケインズ政策によって日本をデフレ経済から脱却させたのに評価が意外と低く、それどころか反対に軍拡路線に道を開いたと言われのない非難を受けているくらいである。
これは日本の歴史学者にマルクス主義者が多かったことが影響しているからと筆者は考える。マルクス主義の立場からは、デフレ経済が続けば、そのうち労働者や庶民の不満が嵩じ、やがて革命が起るという信条・信念がある。これを邪魔するのがケインズ政策と言うことになる。
古典派やニュークラシカル(新古典派)からは、ケインズ政策はインフレの元凶であり、国の経済の競争力を弱めると攻撃される。また政府に英知を求めることは無理であり無駄だと断定される。したがって政府の働きをなるべく小さくする、つまり「小さな政府」が正しいと彼等は主張する。このようにイデオロギー色のないケインズ政策は、イデオロギーそのものである両陣営からの攻撃の的にされ、弱い立場に追われている。
- 極端な理論同士は親戚
有神論の古典派やニュークラシカル(新古典派)と無神論のマルクス主義とは、両極端であり、一番離れた存在と考えられている。しかし両者は意外と近い。極端な理論同士は親戚のようになる。この点を世間はいまだに誤解している。
たしかにマルクス主義は無神論である。しかし「神」を排した後に、その時の指導者自身がその地位に座る。つまり革命の指導者が独裁者としていつの間にか「神」になるのである。レーニン、毛沢東、金日成、カストロと共産主義・社会主義革命が成った国には強力な独裁者が例外なく誕生している。
また両者は一応経済理論を背景としているが、実態は一種の社会改革運動であり、イデオロギーそのものである。したがって理論的な間違いや矛盾点を指摘されても、決してそれを認めようとしない。両者とも無謬性を主張する余り、カルト宗教めいているのである。ところでソ連が崩壊し、中国が改革路線に転換し、マルクス主義経済の問題点は明らかになっており、ここで改めて取上げることは省略する。
一方、古典派やニュークラシカル(新古典派)については、「自由放任(レッセ-フェール)の経済」に問題があることは歴史的にも証明されていることである。本誌でもニュークラシカルの矛盾点を「虚言・妄言」の類として度々取上げてきた。しかしこれまで一度もそれらに対して満足の行く反論を聞いたことがない。ただ彼等は事有るごとに、「たしかにセーフティネットは必要だが」という「ばかの一つ覚え」の言い訳めいたセリフを付け加えるのである。
両者は「国」「国家」あるいは「民族」というものを暗黙のうちに否定しているところが共通している。共産主義・社会主義は国の枠を越え、世界的な広がりを指向していた。メーデの歌も「聞け万国の労働者」「インターナショナル」である。
しかし世界同時革命が無理と分かると、ソ連では内向きに方針が転換され、トロッツキーのような世界同時革命論者はスターリンに追出された。その後各国の共産主義者は、ソ連の政権維持に奉仕する存在になった。むしろ先々週号で指摘したようにネオコン(新保守主義・・経済の信条はニュークラシカル)の思想には、ソ連を追われたトロッキズム(世界同時共産革命主義)の陰がある。
古典派やニュークラシカル(新古典派)の本質がクローバリズムということは誰の目にも明らかである。つまりこれも行き着く先は「国家」というものを否定することになる。ニュークラシカルの人々は「物」や「資金」だけでなく「人」の世界的な移動を促す。そしてクローバリズムをどんどん促進することによって、人々は幸福になるというデマを広めている。
しかしこれがデマであることに人々は気が付き始めた。欧米の反グローバリズム運動の盛上がりもその一つの反映である(日本のマスコミはほとんど取上げないが)。EUは通貨統合でさえつまずいており、野方図な統合にブレーキがかかっている。
一方、ケインズ政策の基本には国家というものがある。ケインズは一国の経済を前提に経済を分析し(いわゆる閉鎖体系で)、処方箋を書いている。また輸出増大による有効需要政策を近隣窮乏策と否定している。
ケインズが分析の対象にしたのは大不況下の英国経済である。当時の英国は国内への投資機会が減り、海外の植民地などへ資本がどんどん流出していた。ケインズはこの国内の投資不足を、政府支出と低金利政策による有効需要創出によって補うことを主張したのである。
ニュークラシカルにしてもマルクス主義にしても極論である。しかし極端な理論は一時的に盛上がり急速に広まるが、そのうちいつの間にか萎むものである。ところが日本におけるニュークラシカルの運動は、ここまで勢いが衰えないままで来た。日経新聞などはニュークラシカル派に概ね占領され、カルト機関紙化している。しかし純粋な極論がいつまでも支持されるはずがないのである。筆者は、ひょっとしたならこれらの極端な考えの運動には特定の利益受益者が密かに結びついているのではないかと推測している。
例えばフェミニズ運動という極端な原理主義運動に関しても、各地にフェミニズ(男女共同参画)会館が立ち始め、ある種の利権と結びついていることがバレてきた。つまりフェミニズ論を吐いている人は純粋でも、そのような政策が実行されるにはこれによって利益を得る人々がいて、これを促進しているのである。ニュークラシカルの理論でも同様のことが言えるのではないかと考えるのである。例え規制緩和を声高に唱える人が純粋でも、それを推進する人々にとってはこれが自分達の利益と結びついているのである。そしてそのことが段々バレてきたのがこの半年間の出来事である。
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