- 日本の経済学界の堕落
経済学に関連して宗教とか哲学といった、これまで当コラムが取扱ったことがない分野に今週から少し言及する。もちろん筆者はこのような分野の専門家ではなく、これらに関して極わずかな知識しか持ち合わせていない。したがって所々で間違ったことを述べるかもしれないが、その場合にはご容赦願いたい。筆者は今日の日本の混乱した経済論議を見ていると、これらを理解し整理するには、どうしても宗教や哲学などといった分野まで思考を広める必要性を感じるのである。
ただ話を進める前に、今日の経済学の流れと悲惨な現状について簡単に触れる必要がある。経済学は欧米を中心に発展し、日本の経済学はこれらをそのままそっくり輸入したものである。日本の大半の経済学者の研究の対象は、欧米で発展した経済学理論であり学説である。端的に言えば日本の経済学は、本来の経済学ではなく、「経済学」学である。また日本の現実の経済を分析したと言っても、欧米で組み立てられた理論を日本の経済の現状に無理に当てはめようしたものばかりである。
日本の経済学者は欧米の経済理論の背景にある宗教とか哲学といったものに気が付かないか、あるいはこれらを軽視している。特にサミユエルソンなどのネオクラシカル(新古典派)が経済学の主流になって以降、経済学が数理的になり、この傾向は強まった。経済学なのか数学なのか分からなくなったのである。しかし経済を数式で表すということは、かなりの単純化と割切りが行われていることを意味する。
さらに同時に、数式で表すために数々の前提条件が置かれている。今日の経済学ではその前提条件が当り前にように扱われ、誰もそれらを吟味しようとしない。前提条件が現実離れしていても全く気にしていないのである。もっとも前提条件を問題にすれば、これまで学んできた経済学の全体が崩壊する不安を察知しているのかもしれない。
具体的な例の一つとして「資本」というものを取上げる。これに対しては06/7/3(第443号)「トービン税について」で紹介したジョーン・ロビンソンの指摘が参考になる。形が異なる「資本」というものの量を集計することはほとんど不可能である。1000万トンの製鉄設備、100万キロワットの発電設備、30万バーレルの石油精製設備、2,000人収容するホールと言った個別の資本を総計して、合計額を算出すると言った場合を考える。たしかに頭の中では抽象的にそれができるかもしれない。しかし現実には資本の量を合計して示すことはできない(年間1000万トンの製鉄設備はあくまでも1000万トンの製鉄設備であり、これに100万キロワットの発電設備を加えても両者の合計の資本量は表現できない)。
しかし資本量を合計することができないとしたなら、現実の経済の世界では生産関数が成立たないことを意味する(生産関数は労働量と資本量の夫々の合計額を投入して生産額が決まるという計算式であり、客観的な資本の量というものが表現できなければ現実の経済に適応できない)。ところが驚くことに日本には生産関数というものがちゃん存在しており、日本政府は各種の経済分析や経済予測にこれを使っている。
何と資本の量は設備投資額から減価償却費を差し引いたネットの設備投資額を過去から累計したものとされているのである。資本の量がいつのまにか、単一の単位である金額に置き換えられている。つまり資本量を集計するためにとんでもない割切りが行われているのである。こんな酷い前提条件の元で組み立てられている生産関数というものが、何の疑問もなく日本では広く使われているのである。
極端なケース、償却年限を過ぎた生産設備の設備の資本の量はゼロ(会計学上の残存価額を考慮しなければ)ということになる。しかし日本の主要な生産設備は高度成長期に建設されたものばかりであり、遠の昔に償却年限が過ぎている。仮に追加投資がなされていても、計算上は既にほとんどがゼロに近いはずである。このように現実の世界ではほとんど意味のない生産関数というものが堂々と政府で使われ、これによって各種の経済政策の予測がなされているのだから恐ろしい話である。要するにこのような矛盾の象徴のような生産関数がでしやばっているのも、供給サイド重視というカルト経済学が花盛りだからである。
今日の経済学は数理的に走りテクニカルになった。しかしこれらが成立するために設定されている前提条件そのものを全く考えなくなったのである。そして多数の数学者(元の数学の世界でどのような評価を受けていたのかちょっと興味はあるが)がいつの間にか経済学者になっているように、日本の経済学学界は完全に堕落している。そして経済理論の前提条件を吟味しないという状況は、その経済の学説が生まれた背景にある宗教や哲学を全く考えなくなったことに繋がっている。
- 二分法から三分法へ
西洋(欧米)の思考は二分法と言われている。対して日本など(東洋全体と言い切りることができるか自信がない)の思考の特徴は「あいまいさ」である。例えば西洋では「自然」と「人工」というものが対立関係にある。西洋で「自然」は征服される対象である。一方、日本では「自然」と「人工」とは必ずしも対立しない。庭園の作り方をみても、西洋では徹底的に人の手を入れ「人工」的なものを作り上げる。日本の庭園は自然をそのまま囲い込むところに特徴がある。
また西洋では「資本」と「労働」は鋭く対立する概念である。しかし日本では必ずしも両者は対立しない。労働者が出世して社長(資本の代理人)になることも珍しいことではない。工場では、工場長も作業服を着て、工場労働者と一緒に社員食堂で食事をする。給料も新入社員と社長との間の格差は、欧米に比べずっと小さい(最近は広がっているかもしれない。特に日産自動車のように極端な格差がある会社も出てきたが、どうも日本にはなじまない。)。
二分法の世界では対立する命題の間で葛藤が起き、やがてこれら両者の間で止揚(しよう)が起るという考えがある。正反合(せいはんごう)、つまり「正」と「反」の葛藤がやがて止揚され「合」となる。これはヘーゲルの弁証法論的発展ということになるが、この辺りで筆者の知識も怪しくなる。マルクス主義者の唯物史観では、ヘーゲルの弁証法論的展開で資本主義国家では資本と労働、あるいは資本家階級と労働者階級との対立がやがて止揚され、共産主義国家が生まれることになる。
たしかにソ連という共産主義国家が誕生し、マルクスの予言は曲がりながらも適中したことになる。ただし共産主義革命が起るのは資本主義国家の最後の発展段階ということになっていた。ところが実際に共産化した国々はソ連や中国と言った資本主義国家としては遅れたところばかりであった。マルクス主義者は、この矛盾点に触れないようにしている。
宗教の世界も二分法である。キリスト教とイスラム教は対立する。キリスト教とユダヤ教、あるいはイスラム教とユダヤ教もそれぞれ対立する。これら一神教の世界では、どの神を絶対者として受入れるかが死活問題である。日本のように八百万(やおよろず)の神といった「あいまいさ」は認められない。西洋ではそれぞれの神を掲げ、他国に侵略し合った。征服された方は、侵略者の神を信じるかどうか迫られる。つまり屈服して侵略者の掲げる宗教に改宗するか、あるいは迫害されながらもこれまでの神を信じることを止めないかの選択に迫られたのである。
また西洋の「神」は常に人に幸福を与えるとは限らない。時には神は人に過酷な試練を与える。例えばカミュの「シーシュポスの神話」の神は、人に大きな石を山に押上げることを何回も強いる。一方、日本の神は常に人に恵みを与える(人に悪さをするのは貧乏神ぐらいである)。西洋と日本では「神」そのものの概念が大きく異なるのである。
宗教に関してはもう一つの重要な二分法がある。絶対者である「神」が存在するかどうかの二分法である。有神論者は絶対者である「神」が存在すると固く信じている。一方、無神論者は、「神」は存在しない、あるいは存在しては困ると考える。
有神論と無神論は互いに全く相容れない概念である。この対立は様々な分野で見られる。芸術や小説の世界だけでなく、進化論といった科学の分野にも及ぶ。もちろん哲学の分野でも有神論と無神論で対立がある。しかし筆者は、有神論と無神論に関しては、二分法だけで単純に割切るのは間違いではないかと考える。
有神論者と無神論者以外に、「神はいてもいなくても良い」、あるいは「神はいるかもしれないが、時として神も間違える」と考える人がいるはずと筆者は思う。つまり「神」の存在に関しては、二分法ではなく三分法で捉えるのが適当と考えるのである。これを経済学に当てはめるなら、有神論が古典派やニュークラシカル(新古典派)であり、無神論がマルクス経済学である。そして「神はいてもいなくても良い」「神はいるかもしれないが、時として神も間違える」と考えるのがケインズ経済学である。
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