- ケインジアンの特徴
ケインジアンは、自由放任(レッセ-フェール)経済では往々にして問題が生じると考え、その時は政府などが積極的に市場に介入することを提唱する。これを修正資本主義と呼んでも良いであろう。先週号で取上げた「トービン税」などはその典型と筆者は考える。
1997年のアジアの経済(通貨)危機をきっかけに「トービン税」が見直され、現実経済にこの税制を導入しようという国際的なNGOがフランスで誕生した。アタック(ATTAC)というこの団体は、「トービン税」の実現を目指し、世界的に活動を広めている。日本にもいくつかの活動拠点があるようだ。
為替取引に極めて低率の取引税を課し、これを財源にアフリカ諸国などの発展途上国に経済援助を行おうというのがこの団体の設立主旨である。もっとも筆者には、アタック(ATTAC)などが主張する「トービン税」が異常な為替取引の抑制に有効がどうか不明である。他にもっと良い方法があるかもしれないと迷うところである。またなぜ取引税を経済援助に使うのかについても単純には納得できない(為替取引の制御が目的なのか経済援助が目的なのかはっきりしない)。ただ国際化している自由放任(レッセ-フェール)経済になんらかの歯止めみたいなものが必要と考える。
ところで考えてみれば自由主義の市場経済になんらかの規制が必要という動きは、今日の世界の常識になっている。本来、自由であるはずの金融市場にも各種の規制が設けられている。最近の投資ファンドに対する規制の動きもその一つである。日本ではライブドアや村上ファンドの事件をきっかけに、投資ファンドに対する規制が強化される。驚くことに最も自由放任(レッセ-フェール)的経済の米国でさえも、投資ファンドに対して規制が強化されている。
また国際的に企業の会計制度についても各種の規制が強化されている。企業(資本)の活動を自由化すれば、経済がどんどん発展するといった安易な意見は全く通用しなくなった。また人に移動の自由に関しても、移民で成立っているようなアメリカでさえ、英語が話せないヒスパニック系の人口が増えこれが問題になっている。もはやアメリカは「一つの国、あるいは国家」としての呈をなさないほどになっている。
このように自由放任(レッセ-フェール)の経済が成立たないことがはっきりしているのに、経済学の思想においては新保守主義・新自由主義が全盛である。一方、ケインズ経済学は全くの落ち目である。「トービン税」に見られるように資本主義経済に何らかの修正が必要という考えは常識となっているのに、ケインジアンの声はほとんど無視されている。
また経済をマクロ(一国の経済)で捉えるという考え方が衰退している。今日の経済学者は、盲目的に「小さな政府」「官業の民営化」「規制緩和による競争促進」を訴える。ところがこれによって落ちこぼれる人々が出て来ると指摘されると、必ず「セーフティーネット」を張ると言う。「セーフティーネット」なんて心にもないくせに、慌ててこのセリフを付け加えるのである。
現実は、新自由主義者のニュークラシカルが主張する規制緩和や小さな政府政策によって、従来のセーフティーネットが破壊されてきたのである。筆者は、このようなニュークラシカルの発言や行動に常に「怪しさ」と「不信感」を感じている。彼等の主張は、一国の経済の発展を説きながら、必ず一部の人々にだけに利益をもたらすものと感じるのである。
- カルトの経済論
筆者は、今日まで全盛を極めているニュークラシカル的な思想は、宗教的な頑迷な考えと貪欲な利益追求が結びついたものと考える。さらにもう一つ加えるなら、グローバリズムという国家というものを否定する思想がこれに密かに結びついている。実際、ブッシュ大統領の側近であるネオコン(新保守主義)の思想にはトロッキズム(世界同時共産革命)の陰がある。
元々ネオコンは民主党(米国)を支持していたはずなのに、いつの間にか保守政党である共和党支持に鞍替えした。同様に日本においても本来保守政党であった自民党が、いつの間にかネオコン政党になってしまった。今日の自民党は、小さな政府やプイマリーバランスの黒字化しか興味がなくなったようである。これらは日本の民主党の従来からの主張であり、自民党は保守政党から革新政党になったのである。
この頃筆者は、経済学を思想的に捉えることが重要になったと感じている。まずケインズやケインジアンは思想的なものがはっきりしないことに特徴がある。科学的、技術的に経済を分析し、処方箋をスマートに提示する。しかし目指す世界像みたいなものがない。
一方、ニュークラシカルに代表される新保守主義・新自由主義は極めてイデオロギー的である。目指す社会がはっきりしている。表向きにはアダム・スミスの自由放任(レッセ-フェール)の世界である。政府の経済への関与をなくし、また経済のグローバル化である。経済理論としては極めて幼稚であるが、幼稚なだけに誰にでも理解されることが強みとなっている(ケインズ理論を理解するには相当の努力が必要)。筆者は、ニュークラシカルは経済理論というより、イデオロギーであり一種の社会改造運動と捉えている。端的に言えば一種のカルトである。
一世を風靡したケインズ経済学であったが、瞬く間に勢いがなくなった。ケインズの弟子も、大半がネオクラシカル(新古典派)に去り、さらに70年代以降はニュークラシカル派が勢力を増している。ところでニュークラシカルは、ベトナム戦争の後遺症であるニヒリズムから生まれたという説もある。
70年代以降、日本においてもケインズ経済学は落ち目になった。特に財政赤字が問題にされ、さらにソ連が崩壊し共産主義・社会主義が否定されると同時に、ケインズ経済学は攻撃の対象となった。今日、「自分はケインジアン」と称する経済学者は少数派である。
ケインズ経済学が落ち目になった理由の一つは、ニュークラシカルなどのケインズ以降の経済学の攻撃の的になったことが挙げられる。ケインズは経済に介入する政府は英知を持って運営されることを前提にした。しかし政府の信頼が落ちると同時に、ケインズ経済学も否定されるようになった。日本では公共事業非難が起り、これによってケインズ派の立場を弱めた。「無駄な公共投資をやるくらいなら減税しろ」といった主張が幅をきかすのである。
ニュークラシカルの主張は、本誌がずっと言っているように「虚言・妄言」の類である。しかしどれだけ間違いを指摘されても彼等は一向にめげない。一種のカルト宗教的なイデオロギーの強さがある。ケインズ経済学にはそれがないのである。
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