- 議論の整理
今回の日銀の量的金融緩和の解除を受けて、日銀の「独立性」が問題になっている。小泉政権中枢は「日本経済は未だデフレを脱却していない」と、日銀の今回の決定に否定的であった。中には改正日銀法第四条「決定する金融政策が、政府の経済 政策の基本方針と. 整合的になるように義務付け」を引合いに、日銀法の再改正に言及する者までいる。
学者やエコノミストの意見も割れている。まず中央銀行である日銀は、政策判断において「独立性」が尊重されるべきと観念的に考える人がいる。そもそもこれらのほとんどの人々は、量的緩和政策だけでなく、ゼロ金利政策も異常と考えている。したがって今回の日銀の決定に賛成し、むしろ日銀の決定に反対する者(特に政府関係者)を非難している。
一方には、デフレから脱却していない今日、何故、量的金融緩和の解除を急ぐのだと、今回の日銀の決定を非難する者がいる。日銀の「当面、今後もゼロ金利が続き、かつ物価もプラスで推移するのだから、実質金利はむしろマイナスになる」という見解にもかみつく。彼等は「実質金利を算出する場合、名目金利から差引くのは現実のインフレ率(物価上昇率)ではなく、期待インフレ率(予想物価上昇率)」と指摘する。つまり「量的緩和の解除」によって期待インフレ率は小さくなり、場合によってはデフレ期待さえも起り得ることを危惧している。そして今回の日銀の決定によって再びデフレが深刻になる事態になれば、日銀の責任が問われることになり、場合によっては日銀法の再改正も視野に入って来ると主張する。
本誌は過去に何回も「日銀の独立性」を取上げた。99/9/27(第132号)「日銀の独立性(その1)」、99/10/4(第133号)「日銀の独立性(その2)」や00/7/17(第171号)「日銀から通貨庁へ(その1)」、00/7/24(第172号)「日銀から通貨庁へ(その2)」などである。これらを読んでもらえば分るように筆者は「日銀の独立性」自体には懐疑的である。そのことを端的にまとめたのが00/9/11(第176号)「日銀の独立性の怪しさ」である。
筆者が「日銀の独立性」に懐疑的である一番目の理由は、これまであまりにも日銀が金融政策で間違ったことをやり過ぎていることである。筆者が思い当たるだけで「列島改造時代の過剰流動性」「バブル期の金融引締めの遅れ」「バブル崩壊後の金融緩和の遅れ」「ゼロ金利解除」などがある。これ以外でも小渕政権時代、円高が進行しているのに速水日銀総裁は、金融緩和を拒否した。この時には小渕首相さえも「自分が任命した総裁ではないから」とさすがにあきれていた。また速水日銀総裁は、政府の強い反対を押切って「ゼロ金利解除」を行った。しかしITバブル崩壊も相まって、景気が急降下したため「ゼロ金利政策」に逆戻りした。この事件によって日銀の権威はさらに失墜した。
しかし人々は取上げないが、他にもおかしな金融政策がある。79年の金融引締めである。第二次オイルショック後、これに過剰反応して日銀は金利を引上げた。その後の財政再建運動と相まって、日本は外需依存型経済にどんどん傾斜していった。この様子は本誌03/2/17(第285号)「日本のデフレの原点」で取上げた。これらの政府・日銀の政策が日本のデフレ経済を深刻化させ、ついにはプラザ合意による超円高、そしてバブル経済とバブル崩壊へと繋がった。
このように日銀の金融政策の歴史は、失敗の歴史である。戦前でも日銀総裁であった井上準之介が大蔵大臣になり、金解禁を強引に行い、昭和恐慌を招いている。したがって金融の専門家と言われる日銀に金融政策を全部任せるという雰囲気は日本にない。ただ日銀の名誉のために言えば「列島改造時代の過剰流動性」と「バブル期の金融引締めの遅れ」は、日銀の責任というより、政府・財政当局の日銀への圧力による結果である。
- 価値観の摺り替え
「日銀の独立性」を考える場合、「何故、日銀は政策を頻繁に誤るのか」という現実問題を避けることはできない。これらの失敗は「日銀」の根本的な体質に根差しているからと筆者は考える。日銀はジャスダックに上場し民間の銀行を装っているが、実態は全く異なり、特殊法人でありまさに国家の機関である。日銀マンは国家公務員そのものである。
国家の機関には、夫々、独特の価値観がある。そしてこれらの機関の内部の人々は、その価値観を共有している。財務省にとって一番重要な価値は「財政の均衡」である。環境庁なら「環境優先」であり、外務省の中国担当(チャイナースクール)にとっては「日中友好」が最重要課題である。しかし問題は、こられの価値観が自分達にとって「正義」かもしれないが、日本という国家全体にとっては「悪」ということが有り得ることである。ところがこれらは国家の機関であるにも拘わらず、国家国民のためというより、自分達の機関、つまり自分達の組織にとって有益な行動に走りがちである。極端な場合には、国民の価値観を自分達の価値観に知らぬ間に摺り替えることさえ行う。
例えば財政問題である。今日、財政再建が何か「日本の国家目標」になっている。本来、「財政」というものは国民の幸福の為に資するもののはずである。ところがいつの間にか、「財政」は再建する対象になっている。今日、プライマリーバランスを回復することによって国民が幸せになると、政治家を含め国民全体がこの勝手な論理に洗脳されている。財務省の一部局の目標が、まるで国家目標になっているかのような錯覚を人々に与えている。これに加担しているマスコミの罪は重い。
日銀にとって一番重要なことは「日銀券の価値」を維持することである。つまり物価が安定的で、物価上昇率が小さいことが理想となる。したがって日銀はインフレよりデフレ、円安より円高を好む。日銀という組織の内部においては、これに反する考えの者は異端ということになる。いつ何時にも物価が安定していることがベストという観念が日銀全体で共有されている。
したがって日銀という組織の内部においては、金融の引締めを行った日銀総裁の評価は高く、金融緩和を行った総裁の評判はさんざんである。金融政策においては、国民の生活なんて二の次である。精々、一部の国民を向いているに過ぎない。そして「インフレは国民の敵」という日銀の価値観が、あたかも国全体の願いのように、国民の間に刷り込まれている。これには日本の左翼勢力であるマルキストも大いに加担してきた。日本の教科書はマルキストの歴史観に強く影響を受け、積極財政でインフレ的政策を行った政治家は悪党であると決めつけ、デフレ的政策を行った政治家は「清貧で潔癖な政治家」と持上げている。教科書の内容は絶対に正しいと思い込んでいる受験秀才ほど、この怪しい思想に洗脳されている。
日銀の内部では、デフレの国民への悪影響なんてたいした問題ではない。むしろ「インフレこそが国民の敵」という価値観が、国民の間でも根付いていることが当り前になっている。したがってインフレの芽を探すことが重要であり、これが仕事になっている。本誌06/2/27(第426号)「潜在GDPとGDPギャップ」、06/3/6(第427号)「GDPギャップのインチキ推計法」で紹介した、日本銀行調査統計局の論文「GDPギャップと潜在成長率」もこれに沿ったものである。
筆者に言わせれば、論文自体は、稚拙で説得力は全くない。しかし日銀は、この手の怪しい理屈であっても、量的金融緩和の解除に繋がるがるなら、何でも前面に打立てようとする。不思議なことに、日本の経済学者とエコノミストは、これらの怪しい理論に全く反応せず、明らかに黙認している。最近、「昨年10ー12月の需給ギャップが逆転し、需要が供給力を上回った」という100%有り得ない事態の報道にも無反応である。中には「日本の実際の潜在GDPは、2%くらい大きい」と解説するばかなエコノミストさえいる(本当の日本の潜在GDPはもっとずっと大きく、今日においては潜在GDPを問題にすることすら必要性は全くない)。
今週は日銀が自己中心的な経済観に固執するため、しばしば過った金融政策を行いがちなことを説明した。ところでここまで筆者は、今回の日銀の決定について感想を述べていない。読者の方々は、裏切られる思いかもしれないが、実は筆者は今回の日銀の政策決定には賛成である。さらにゼロ金利の解除も行うべきと考える。理由は来週である。
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