- 日本的経営の危機
派遣社員やアルバイト・パートの給与は低い。また製造現場も派遣社員が増え、給与水準が低くなっている。一頃高かった3K職場の給与も急激に下がっている。これらの職業の特徴は、市場がほぼ完全競争状態であり、給与水準が需要と供給で決まる要素が強いことである。今日、筆者が主張しているように日本の実質的な失業率は20%くらいである。したがってどれだけ給与を引下げても人は集まる状況にある。
コンビニのアルバイトの時給は、東京なら850円から1,000円、地方は600円台である。これでも応募者がいて、また35才以上はお断りというのが普通である。今日、ニートという人々が問題になっている。ある大臣は、「これは教育が間違っていたから」と大きくピントが外れた発言をしている。むしろこのような低賃金では、働く気がしないという気持ちが解る。ニートは経済問題であり、決して教育問題ではない。また労働経済白書で52万人いると言われる(実際はもっと多いと思われる。内閣府は85万人と推計している。)ニートの人々が職を探し始めたら、間違いなく派遣社員やアルバイト・パートの給与はさらに下がるはずである。
政府の内需縮小策と規制緩和で、日頃から競争にさらされている人々は酷い目に会っている。一方、規制緩和が及ばない分野の人々は、今日の規制緩和やデフレを喜んでいる。規制緩和でタクシーの運転手は、収入が激減している。ところが一方、行政の庇護下にある大阪の市バスの運転手の平均年収は700万円である(1,000万円以上の運転手はゴロゴロしている)。同じ車を運転していても何倍もの収入の格差が生じている。
しかし日本におけるこれらの競争的な立場に置かれている職業の給与は、規制緩和や需給のアンバランスに加え、グローバリズムの影響を受けている。競争が世界的になっており、給与が国際的な水準に収斂する可能性が強いのである。製造現場の給料が国際的な水準より一定額以上に高くなれば、工場は人件費の安い国に移転する。最近ではコンピュータソフト作成さえ、一部が中国に移転している。
サービス産業では、中国からの修学生の姿が目立つ。東京の飲食店にはどこでも中国人が働いている。どうも地方は時給が安いせいか、地方にいた中国人が皆東京に集まって来ている印象がある。
日本では、日本的経営というものが行き詰まってから、このような臨時雇用や不定期労働者が急増している。昔はこのような雇用形態での就労は、正社員になるまでの仮の仕事であり繋ぎであった。しかし今日では会社が正社員をどんどん減らしている。これでは一生涯臨時雇用や不定期労働者のままという人々が激増することは目に見えている。そこで日本的経営というものを取上げる。
日本の生産現場は、少し前までは工場労働者と会社幹部の所得格差が諸外国に比べ小さかった。工場長も制服を着て、社員食堂で同じ食事をしていた。これを見て日本的経営を社会主義と非難する論調がある。しかし筆者は、これこそ日本人が歴史に学んだ知恵だったと考える。
日本で資本主義がスタートしたのは明治の時代であった。当時は経営陣や会社の幹部と一般の社員との給与は大きな格差があった。たとえばボーナスは、現場の工員は日当の一週間分とか、職場の長でもせいぜい3週間分と言った状態であった。一方、工場長は一回のボーナスで家が2軒建ったという話もある。つまり給与面では当時の日本の方が本来の資本主義らしかったのである。
このような会社経営が変わったのは、昭和恐慌時の労働争議の頃からである。経営者と労働者の一体的経営というものが、その後日本で定着した。しかし日本人にとってこの方がしっくりしていたからこそ、戦後もこのような労使関係というものがずっと続いたと筆者は考える。
日本的経営は、長期の会社と従業員の安定した信頼関係があって成立つ。しかし今日の状況は、様変わりしている。発明特許の権利を主張する者や会社のデータを勝手に持出し金に変える者が続出している。逆に会社は従業員を簡単にリストラしたり、正社員を減らし、派遣社員を増やしている。日本的経営という言葉が段々死語になっている。ちなみに昭和恐慌時の労働争議で一番激しかったのは「鐘紡」である。その「カネボウ」は、今日ほぼ解体された。この出来事こそ日本的経営の行く末を暗示している。
- 捨てたものではない日本的経営
日本的経営は、これも日本人と日本社会のあり方というものと密接に関係している。ほとんどの日本人は日本という小さな島国に今後も定住することを当たり前と考え、何か運命共同体雰囲気の中で生活してきた。日本のような社会では、目的が何であれ、秩序を乱すことが重い罪になった。しかしこのような雰囲気が窮屈と感じる人もいる。
意外と思われるかもしれないが、このような日本人の社会は効率的である。仕事の上でトラブルも日本的な解決が図られた。他人の集まりのような米国では、トラブルは司法の手に委ねられる。米国には90万人以上の弁護士がいる。米国民の年間の一人当りの訴訟費用はなんと1,000ドルと言われている。このような費用こそ無駄であり、このような金を裁判に使うのなら、飲み食いなどの交際費を使って日頃から良い人間関係を維持した方が得と考えるのが、これまでの日本人である。
知識の共有化や伝承といったものも日本的である。会社内においては、先輩が後輩に無償で知識を授けるのが当然と考えられていた。自分達も先輩から色々なノウハウを得てきた。これも会社というものが運命共同体と感じていたからである。しかしこのようなことは日本以外では、必ずしも一般的ではない。
以前04/8/30(第356号)「日本の「韓国化」」の中で、韓国が日本に「ウィン・ウィン」計画なるものを持ちかけて来ている話をした。これは韓国の2万人の新卒者(主に理工科系の大学卒業者)を日本の企業で2年間働かせるという壮大な構想である。驚くことにこの2年間の人件費は韓国側が持つというのだから、日本の企業にとっては一見うまい話である。「ウィン・ウィン」というのは、勝ち組と勝ち組、つまりどちらにとっても良い話という意味である。
しかしこのうまい話には裏がありそうである。韓国社会では、自分の知識を他人に教えたがらない風潮があるようである。後輩に知識やノウハウを教えれば、自分の立場が危うくなるというのである。そこで韓国の経済界は、日本の会社で若手の技術者を育ててもらおうと考えたのである。たしかに今日の産業は知識やノウハウの固まりである。
中国はもっと極端なようで、中国人は、欧米系や日系の会社に勤め一応の技術を身に付けると、さっさと会社を辞めて行く。また中国人同士が技術を教え合うということはあまりないと聞く。しかしそれでは中国の産業が、単純な組立工業以上に発展することが難しいような気がする。元々中国人や韓国人にとって重要な人間関係は一族である。それに対して少なくともこれまでは、日本人は共同体人間であり、会社人間であった。
しかし構造改革運動の中で、株式の持合い、系列取引、終身雇用といった日本的経営の根幹みたいなものが否定されてきた。たしかにぬるま湯のような中で、日本の会社経営者も従業員も楽をしてきた。そこそこの利益を上げていたなら、株主もうるさいことは言わなかった。しかし株式の持合解消が進み、系列外取引が増え、臨時雇用の増大によって日本的経営も変わってきた。また日本的経営を放棄することによって、大企業の利益水準が上がっている。
ところが企業利益が増えたこと以外、日本的経営の崩壊したことによるメリットは生まれていない。むしろ日本の名目GDPは小さくなっている。企業の利益が大きくなっているのに、全体の日本経済は縮小しているのである。むしろ筆者に言わせれば、日本の企業は日本的な経営を犠牲にして、一時的な利益を得ているのに過ぎない。
しかし日本の現状はまだまだ手緩いという非難がある。「それでも日本は変われない」と言う本が米国人(E・リンカーン)によって書かれ、半年ほど前日経新聞で紹介されていた。著者はモンデール元駐日米大使の特別補佐官だった人物である。この著者はまるで日本が変わることが良いことと決めつけている。この人物に問いたい。日本が変わることが誰にとって都合が良いのであろうか。また彼の理想とする社会は一体どこにあるのだ。まさか米国が理想郷とは言わないであろうが。
たしかに日本的経営が全壊したわけではなく、今日の状態は半壊の程度であろう。しかしそれでも日本社会は相当のダメージを受けている。日本社会は、企業が日本的経営を続けることを前提に成立っていた。企業は、人を採用し、教育し、福祉を肩代わり、問題があっても簡単には従業員を解雇しないという前提が崩れてきている。それによって社会のあらゆる所に歪みが生じている。
筆者は、日本的経営が危機的な状態に置かれた一番の原因はグローバルリズムであると考える。貿易に関しては、グローバルリズムは日本にとって当初はメリットがあった。しかし経常収支の黒字が続き、円高という大きなデメリットを抱えることになった。どこまでも続く円高は、日本に終わりのない合理化を課す。資本のグローバルリズムは、日本の企業に利益優先主義を定着させ、株主の権利を過剰に認めた。
このように行き過ぎたグローバルリズムが、むしろ日本人を不幸にさせているという事実に気づくべきである。かりにグローバルリズムが避けられないものとしても、日本にとってメリットがある範囲に止めておくことを考えるべきである。何がなんでもグローバルリズムが良いことで、日本のためにどんどんグローバルリズム化を進めるという考えは完全に間違っている。
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