- 市場経済の本質
「構造改革を押し進めれば、必ずグローバリズムの問題に突き当たる」と先週号で述べた。これについてもっと具体的に述べる。資本主義経済は、市場経済が前提になっている。市場経済は、多数の経済主体、例えば企業や消費者が参加し、経済資源である「物・サービス」「雇用」「資金」がやり取りされる。大事なことは、市場が極限的に競争的な状態、いわゆる完全競争でこそ、経済資源がもっとも効率的に配分され、無駄が最小になるという考えがある。この状態を「パレート最適」と呼ぶ。これは経済がまさに「経済的」になった状態である。
「パレート最適」の実現のための重要な条件は「競争」である。「競争」のない市場では、資源の効率的な配分がなされず、資源の無駄が生じる。分かりやすい例として、市場が機能しない社会主義国でのパソコンの製造と販売を考えてみよう。パソコンは、ディスクトップ型とノート型の両方が製造されているとする。社会主義国であるから、製造台数と価格は、市場ではなく当局が適当に決める。仮に両方とも同じ値段とする。しかしノート型パソコンの方が人気がありディスクトップ型パソコンが人気がないとしたなら、ノート型パソコンは売切れ、ディスクトップ型パソコンは売残ることになる。この結果、売残ったディスクトップ型パソコンの製造に使われた資本、材料、労働力が無駄になる。
そこで価格を当局が決めるのではなく、市場が価格を決める市場経済の場合を考える。「市場が価格を決める」とは、売れる物は価格を高くし、売れない物の価格を安くするのである。つまりノート型を高くし、ディスクトップ型を安くする。消費者は高くなったノート型の購入を減らし、安くなったディスクトップ型の購入を増やす。
一方、供給者側は高く売れ利益が大きいノート型の供給を増やす。そして値段が安いディスクトップ型は、利益が小さいか、あるいは赤字になるので、供給を減らすか生産を止める。この結果、需給がバランスする。このように市場がうまく機能すれば、物の価格が上下して需給が一致することになる。需給の一致により資源の無駄が最小になる。つまり価格がパラメータとして動くことによって、ディスクトップ型に投入されていた資源の一部がうまくノート型に移動したのである。
同様なことは、労働市場や貨幣市場(金融市場)でも言える。市場がうまく機能していれば、労働や金融も無駄なく使われることになる。労働市場では、物の価格に相当するパラメータは賃金であり、金融市場では金利である。そして市場が十分に機能するには、競争が必要ということになっている。したがって政府の市場への関与は、この市場の働きを歪めるということになる。そしてこの市場の働きを否定し、当局が全てを決める経済が、社会主義経済であり、共産主義経済である。また独占企業や労働組合、農協の存在も市場の働きを歪めるということになる。
ここまで説明してきたことは、理論経済学のエッセンスである。そしてこの原理は極めて簡単であり、誰にでも理解できる。しかしあまりにも簡単で単純過ぎるため、この市場原理が常に正しいと妄信する人々が出現した。とにかく市場の価格メカニズムを機能させ、経済の無駄を徹底的に排除しようと言うのが、この市場至上主義者(市場原理主義者)である。
元々経済学は、実物資本、労働、金融資本といった経済資源が絶対的に不足していた時代を背景に発展してきた。このような時代では、経済資源の効率的配分こそが最大の富を生み、人々を最も幸せにすると考えられてきた。したがって経済が不調になると、これらの人々は、それは市場がうまく機能していないからと決めつける。決して単純に総需要が不足しているからとは考えない。
日本もバブル崩壊後、経済の不調が続いている。市場原理主義者は、これは日本経済の競争力が衰えたからと考える(不思議なことに、彼等は日本の国際的な競争力を問題にしながら、為替の変動などは全く考慮しないが)。これに対する処方箋は、市場の競争を促進し経済の競争力を回復することと考える。具体的な施策は、各種の規制の緩和であり、政府事業の民営化であり、いわゆる小さな政府の実現である。これらによっ経済が再生できると人々を信じこませている(面白いことに彼等自身がこのことを信じているかどうかが不明であるが)。そしてこの動きこそが今日の「構造改革」運動である。
- 労働市場の価格メカニズム
構造改革の本質は、競争を促し、経済をより効率化させることである。競争を地域だけの競争から、全国規模の競争に広げる方が競争は活発になる。さらに一歩進んで競争を世界的に広げることによって、競争はさらに活発になる。これこそがまさに経済のグローバル化である。グローバル化によって競争は極限まで激化し、経済は極限まで効率化されると考えられている。したがって構造改革派の人々は、WTOなどによる交易の自由化を推進する立場にある。このように構造改革は、経済のグローバル化と切っても切れない関係にある。
構造改革派の人々は、「民族」「国」「国家」という概念に関して極めて淡白である。むしろ国境はない方が良いと思っているふしがある。先週号でフランスを始めヨーロッパ先進国の移民問題を取上げた。移民は労働市場のグローバル化の結果であり、移民の流入は労働市場における競争を促進する。このような世界的な競争の促進を図る構造改革派の人々にとって、移民の受入れは当然のことである。
フランスは、好景気の60年代・70年代に移民を大量に受入れた。積極的に移民を受入れた背景には、好景気による人手不足があった。フランスは、高等な技術を持った移民を受入れるのではなく、生産現場や単純労働、そして人の嫌がる職種の労働者として移民を受入れた。フランス以外のヨーロッパ諸国の移民の状況も同じようなものである。
ところがこの時代の移民の二世・三世がフランスで暴動を起こし、とうとう3ヶ月の非常事態宣言がなされるに到った。まるでフランスの治安は、独立まもない発展途上国並になった。しかしこの問題は、将来うまく解決がつくという見通しはないだけに深刻である。
移民を受入れに関しては、当時フランス国内でも異論があったはずである。特に保守的な人々は移民に反対していたと想われる。しかし製造業の競争力を維持するためとか、人の嫌がる職業に人が集まらないという雇用者の意見が強く、移民を認めたと考える他はない。日本においても、雇用者の代表である経団連が、外国人単純労働者の受入れの自由化を強く要請している。
筆者は決して市場原理主義者ではない。全ての経済的資源の配分を市場に委ねるとは考えない。しかしこれは市場の持つ資源の配分機能の全てを否定するという意味ではない。むしろ自由主義経済の市場の資源配分機能はできるだけ活かされるべきと考える(いつもうまく機能するとは考えないが)。単純労働や人の嫌がる職種に人が集まらないなら、そのような職業の賃金が上昇するようにすれば良いのである。いや市場の価格メカニズムが正常に働くなら、人手不足によって賃金が上昇するはずである。
賃金が上昇すれば、ある程度の人手不足は緩和する。さらに長期的に見れば、賃金が上昇することによって、なるべく人手を使わない生産工程が考え出されたり、開発されたりする。しかし移民を認めれば、賃金の上昇が抑えられることによって、省力化のセンセンティブが働かなくなる。ヨーロッパ諸国のように、人手不足を移民で解決しようと考えることは安易である。また移民はいずれ自国民と同化するという、ヨーロッパ諸国のリベラルな考えがこの移民の流入を後押しした。
移民を一旦認めれば、労働市場の価格メカニズムが働かなくなり、単純労働や人の嫌がる職業の賃金は上がらない。しかし一般の消費者はこれによって物価が上昇しないので、一時的に移民の受入れを支持するかもしれない。一方、移民の流入によって、このような職業に就いている人々は、賃金が上がらないばかりか、職を移民に奪われる可能性がある。
ところが一般の国民やマスコミはこれらの職業の人々に冷たい。「本人達の努力が足りない」「移民と競合しないような高度な技術を必要とする職業に就くべき」と切捨てる。このような意見の一部は正しいかもしれないが、そんなに簡単に職を変えられないのが普通の人々である。所詮、移民の流入は、一般の国民にとって他人事だったのである。しかし今日の一連の移民の暴動によって(移民の暴動はずっと続いていたがマスコミが取上げなかっただけ)、移民政策が完全に間違っていたとヨーロッパ諸国の人々も気が付いたはずである。
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