- 根拠が薄弱な小さな政府論
マスコミが仕掛ける概念は、単純なものに限られる。これが複雑になると、一般の人々になかなか浸透しない。経済用語でも、株価とかGDPといった数字はたいていの人々は理解する。しかし為替となるとちょっと怪しくなる。円が120円から100円になれば円高であるが、120円が100円になるのだから円安ではないかと誤解する人々が結構いる。
金利にいたっては、正しく理解する人はさらに少なくなる。国債の価格が下落すれば、金利は上昇する。しかしこのメカニズムを時々テレビで解説しているが、視聴者で理解する人はほとんどいないと思われる。そこでマスコミは、視聴者や読者をそそのかすため「国債価格が下落し金利が上昇する」といったまともな表現をせず、「国債が暴落する」といったセンセーショナルな表現を使いたがる。街の本屋を覗けば「国債が暴落論」の本が山積みになっている。ところが日本の国債くらい長い間金利が低く、「暴落」からほど遠い債券は世界にない。しかしマスコミと一体になった国債暴落論者は、何十年もこのような嘘をつき続けているが、いまだに商売が成立っている。
「小さな政府」も単純で、マスコミが仕掛けやすい言葉である。公務員でない者からは、公務員の評判が悪い。筆者は、大半の日本の公務員は真面目であると見ている。しかし公務員の不祥事が頻繁に報道されているのも事実である。公費で競走馬を買っていた外務省職員、年金保険料でゴルフボールを作っていた社会保険庁、制服代で息子の背広を仕立てていた大阪市の職員などきりがない。誰もが「財政支出を削減しろ」と思ったとしても不思議はない。さらに後ほど述べるが、無駄の象徴として「公共投資」がよくやり玉にあがっている。
「小さな政府」の実現には、財政支出の削減と減税ということになる。減税は皆が喜び、増税に対しては憤る。しかしほとんど税金を納めていない人々にとっては、実際のところ減税はほとんど関係がない。減税は資産家や高額所得者だけの関心事である。ところが所得の低い人々も減税が自分達に恩恵があると思い込んでいる。消費税の減税(ちょとありそうもない)でもない限り、減税は一般の人々にはほとんど関係がないのである。
ところが一般の人々は、減税を行い、歳出が削減され、小さな政府が実現すれば、自分達にメリットがあると思い込まされているのである。これもマスコミが長年行ってきた「小さな政府」キャンペーンの成果である。竹中大臣もよくこのようなマスコミの作った風潮を巧みに使って「・・・これも小さな政府実現にかなう政策」と答弁を行っている。「小さな政府」政策には、誰も反論できないと踏んでいるのである。
しかし本当に「小さな政府」が良いことなのか、また日本が本当に大きな政府なのか真面目に議論されたことがない。米国の来年の軍事予算は4,200億ドルであり、これにアフガンとイラク関係の補正予算が加わると、全体の軍事費は50兆円を越える。また米国の公務員の数は日本の4倍くらいである(ちょっと古い数字であるが)。つまり米国の政府が大き過ぎるという話なら分かるが、日本の政府が大き過ぎるということはない。
また明らかに大きな政府のスウェーデンが経済的に行き詰り、国民が大きな不満を持っているという話もあまり聞かない。またスウェーデンの政府が、日本政府と違い公正であるというなら、日本における予算の使い方の問題であり、政府の大きさの問題ではない。
過去にも述べてきたように「適切な政府の大きさ」は、その時のその国の経済状態で決まると筆者は考える。民間が貯蓄を使い切れない場合には、政府が使うべきであり、反対に貯蓄不足の場合には歳出をカットし「小さな政府」を目指すことが正しい。金利水準を見れば分かるように、日本は明らかに貯蓄過剰であり、今日の日本では「大きな政府」が正しい。
将来の日本で大きな需要増加は見込めない。したがって民間企業にとって高い期待収益率はとても考えられない。このような状況では、日本で利益を得るための民間投資がどんどん増えることはない。民間投資は海外でなされても、国内への投資額は限定される。むしろ今日のGDP比15%を越える設備投資額はこれでも大き過ぎると考える。技術進歩を考えれば、このレペルの投資額でも過剰設備を抱える可能性が高いのである。
今日、日本に必要なものは、生産力の生まない投資である。つまり政府を大きくし、政府の投資などの歳出を大きくする必要がある。むしろ生産力の生まない投資ができる日本は幸運と考えるべきである。昔なら過剰設備を抱えた国は戦争をやったものである。もっとも金や物の流れを見ると日本や中国の代わりにアメリカがどんどん戦争して、日本と中国の過剰生産力を使っていてくれているから、なんとか世界の経済はバランスがとれているとも考えられる。
結論として、日本は政府を小さくするのではなく大きくして、過剰設備と貯蓄をもっと有効な方向に使えば良い(防衛費ももう少し増やしても良い)。筆者は自信を持って主張するが、今日、日本が必要なものは決して「小さな政府」ではなく、「大きな政府」である。役人の非効率や無駄使いの問題は、政府の大きさと全く別次元の話である。
- 「無駄な公共投資」は議論のすり替え
「無駄な公共投資」もマスコミが作った虚言である。投資といえば利益を生む民間の設備投資しか頭にないのである。公共投資の全てが無駄と言わんばかりである。マスコミはIT産業がハイテクで建設・土木はローテクと烙印を押す。しかしこれもマスコミの偏見である。韓国、台湾、中国に簡単に追い付かれそうになっているIT産業がハイテクとはとても考えられない。むしろ日本の建設・土木の技術の方が奥深いと思われるケースがしばしば見られる。
「無駄な公共投資」に話を戻す。筆者は、ここ一年、何かと西部邁という人物と話をする機会が多かった。何ヶ月か前、西部さんが「専門家や関係者に聞くところ、少なくとも公共事業の2割は無駄と言っている。おそらく3割くらいは無駄かもしれない。しかし残りの7割から8割は人々に役立っているのだから、それで良いのではないか。」と言っておられた。筆者もこの意見に賛成である。
人間の行動にはリスクというものが必ずつきまとう。公共投資も投資であり、当然、リスクはある。一方、民間の設備投資だって無駄がないということはない。バブル期に行われたリゾート開発やゴルフ場投資のほとんどは無駄になっている。生産設備も恒常的に過剰設備を生んでいる。長い間、日本の生産設備の稼働率が75%を下回っている。このように民間の設備投資にも無駄はつきものである。
しかし筆者が無駄な公共投資を手放しに容認しているということではない。同じ予算で公共投資を行うなら、当然、人々に役に立ち、皆が喜ぶ公共投資を行うべきと考える。2割、3割が無駄と言われている公共投資を、無駄の発生を1割や2割に近付ける努力は絶対に必要と考える。ところでよく言われている公共投資についての経済効果については、役に立ち公共投資と無駄な公共投資の間で大きな違いはないと考える。これについては別の機会に述べることにする。
このように「公共投資」イコール「無駄」という考え、意見は完全に間違っている。たった10数年前には日本の貧弱な社会資本が問題になり、大きな公共投資が必要とされた。しかし今日の日本の社会資本を見ても、当時とそんなに変わっていない。ところがたった10数年の間に「白い」ものが「黒い」ものになったのである。
筆者は、永遠に公共投資をどんどん行えと言っているのではない。10年くらいは公共投資を行い、社会資本を充実させれは良いと考える。その後は、公共投資の財源を年金の財源に使えば良いのである。有効需要の推移を考えても、団塊の世代への年金の支給のピークを考えれば、今後5年間くらいは公共投資を増やし、その後さらに5年くらいかけて公共投資を減らしながら、年金支出に財源をシフトするのが良いと考える。
昨年、日本には数多くの大型台風が上陸した。しかし死傷者の数は何十人の範囲に収まっている。数十年前なら、今回のような台風上陸で何千人もの被害者で出ていても不思議はない。発展途上国の自然災害の被災状況の大きさは、昔の日本を思い出させる。今日の日本でこれだけ被害が少ないのも、長年の公共投資のおかげである。このようなことを考えると、なにがなんでも公共投資は無駄と言う風評をたれ流しているマスコミ人の神経はおかしい。
ライブドアのニッポン放送買収劇に対して、サンケイ新聞が非難めいた社説(http://www.sankei.co.jp/news/050218/morning/editoria.htm) を書いている。しかし筆者の理解では、サンケイ新聞の経済に関する主張は原理的資本主義のはずである。小さな政府どころか、政府なんかない方が良いと言っているような新聞である。またグローバル経済の熱狂的な信奉者のはずである。つまりサンケイ新聞は、今日の日本の放送事業に関する外資規制そのものに反対する立場のはずである。
サンケイ新聞にとって、まさにライブドアのホリエとかいう人物などは「時代の寵児」扱いだったはずである。実際、ホリエとかいう人物は、グループのフジテレビのバライティ番組にレギュラー出演していたではないか。ところが原理的資本主義の延長線上の市場至上主義が自分達に襲ってくると、とたんに「規制」が必要と訴え始めたのである。まさにご都合主義のダブルスタンダードである。
原理的資本主義をつきつめれば原始的な資本主義であり、古典派経済学の世界である。しかし古典派の理論では、現実の経済が説明できないから、それ以後の経済学が生まれたのである。ところが何も考えていないマスコミ人は、時流であるこの原理主義に飛びついているのである。そして今日の世論は、このような軽薄なマスコミの言動に左右されている。「小さな政府論」「無駄な公共投資論」「構造改革騒動」もこの流れの一つである。
|