- 日銀の窓口指導
今週からリチャード・A・ベルナーの「虚構の終焉(フィクション・エコノミクス)」を取上げる。しかし経済コラムの読者で、この本や著者の前著である「円の支配者」を読んでおられる方はそんなに多くはないと想われる。そこでポイントとなる箇所については、簡潔に著書の記述を紹介しながら、論評を行なう形にする。
この本を取上げたのは、筆者がずっと主張している「日本においては土地の売買が経済に対して大きな影響がある」と同様の考えがこの「虚構の終焉」に盛り込まれているという指摘を受けたからである。しかしざっと読む限り、リチャード・A・ベルナーと筆者ではアプローチ方法がかなり異なっている。ただ世間で経済に影響が大きいはずの土地の売買が軽視されているという考えは共通している(リチャード・A・ベルナー氏は、これを銀行の不動産関連業界への信用供与という形で認識している)。双方ともこれが国民所得計算から除外されており、このことが軽視されている一因であると考えている。
著書は、18章からなっており387ぺージとちょっと分厚い。筆者は、大まかに三つのフェーズで構成されていると勝手に解釈した。第一が「貨幣の流通速度低下の原因の分析」、第二が「財政支出増大政策が有効でなかつた理由」(筆者はこれは著者の誤解と考えているが)、そして第三が「金融当局、つまり日銀の問題」である。ただ日銀の金融政策への一貫とした批難がこの著書の骨子と筆者は捉えている。今週は、順番は変であるが最後の日銀の問題を取上げる。
銀行の信用創造機能の説明から始める。銀行は預金者から預った預金を単純に貸出すのでない。まず銀行は、預金額の一定割合を準備金とし、残りを貸出す。ところが貸出先は、銀行からの融資金を直ぐに使うことはないので、実際に使うまでの間、銀行に預金の形で保有することになる。そして銀行は、この預金についても、一定の比率の準備金を残して、さらに貸出すことができる。銀行はこのような仕組みによって、理論の上は一つの預金の何倍もの貸出を行なうことができる(準備金比率が小さいほどこの貸出額の合計は大きくなる)。銀行のこの信用創造機能は、社債や株式といった直接金融との決定的な違いである。
日銀はこの準備金比率を操作することによって、銀行の貸出し額をコントロールできる。さらに日銀は銀行に対して、窓口指導で貸出額や貸出先を規制していた。この窓口指導が重要である。窓口指導は厳格なもので、これを破ると銀行にペナルティーが課されることから、銀行はこの指導に忠実に従っていた。つまり日銀は、このような仕組みで銀行の民間への信用の割当に強く関与していたとリチャード・A・ベルナー氏は指摘している。しかし窓口指導のような直接介入は、平時の先進国では考えられない行政手法であり、OECDで問題になったため表面的には82年に終了していることにしていた。
しかしベルナー氏は実質的に日銀の窓口指導が91年まで続けられていたと主張している。もしこの主張が正しければ、80年代後半のバブル生成は日銀の主導で引き起こされたことになる。ベルナー氏は窓口指導が秘密裏に続いていたことを、関係者へのインタビューと計量経済学的手法を駆使した分析で証明したと説明している。
さらに91年に窓口指導の制度が廃止されたのにも拘らず、それ以降も依然として日銀の銀行への影響は変っていないとベルナー氏は説く。つまり今日、日本が長期のスランプから抜け出せないのも、日銀がそのような政策を意図的に行なっているからと主張している。
つまり過去に日本経済が成長したのも、長期のデフレに陥ったのも日銀の匙加減一つだったという話である。ここのところがリチャード・A・ベルナーの「虚構の終焉(フィクション・エコノミクス)」を理解するための最大のポイントである。このことを証明するためには、窓口指導を通じた銀行の信用割当の働きが重要な役目を持つことになる。
- またもや創造的破壊
本格的に本書の説明を進める前に、今日の日銀の政策を決定している人々の思想と発想に触れる必要がある。日銀の政策を決めるキーマンは、日銀出身の総裁か副総裁と営業局長(銀行への窓口指導の最高責任者)である。バブル期は副総裁が三重野氏(後の日銀総裁)で、営業局長が福井氏(現日銀総裁)であった。
ベルナー氏は、日本経済が復活しないのも、日銀が取るべき適切な政策を意識的に行なっていないからと決めつけている。そしてこれは、日銀の幹部がシュムペータの創造的破壊の信奉者(シュムペータチルドレン)であることと深く関係していると主張している。またもや創造的破壊である。つまり日本経済が復活するためには既存の産業が整理される必要があり、早まってデフレを解決すれば潰れるべき企業や産業が残ることなるというのである。つまり日銀はこのような動きを防ぎたいため、デフレに有効な手段を採らないとベルナー氏は考えている。
実際、三重野元日銀総裁はシュムペータの信奉者という可能性は強い。また福井現日銀総裁が、総裁就任後、一番先に会いに行った人物がこの三重野氏である。三重野氏と福井総裁は子弟関係にある。しかし福井総裁がシュムペータの信奉者かどうか筆者には分らない。ただ日銀全体がシュムペータの創造的破壊に影響を受けていることは十分考えられることであり、それに関する話を筆者も聞いたことがある。
しかしシュムペータの創造的破壊が真っ赤な嘘ということを、カバレロとハマーという米国の経済学者が実証研究で証明している。これについては竹森俊平慶大教授の「経済論戦は甦る(東洋経済新報社)」に述べられている。創造的破壊が進めば、生まれたり、残ったりするのはシュムペータが想定したような革新的な企業ではなく、資本力のある企業であるとカバレロとハマーは指摘している。
今日日本で実際に起っているのは、まさにカバレロとハマーの説に近いことである。例えば創造的破壊がプロ野球界に及んでいる。球団の買収に積極的なところは、とても革新的と呼べない、ITバブルの恩恵で資本力を持った企業ばかりである。また行き詰ったスーパーやリゾート施設を買おうという企業も資金力のある外資が目立っている。また資本力のある企業がこれらの物件を買収し、リストラを行なって再生に成功しても、日本のマクロ経済に影響がないか、あるいはむしろ悪影響を与えているのが現状である。
シュムペータの説が正しいのなら、過去に存在した大帝国の崩壊なんてあり得なかったことである。しかしローマ帝国も大英帝国もあっけなく崩壊している。シュムペータが正しいのなら、これらの大帝国は崩壊する前に創造的破壊が起って立派に再生し、さらに発展していたはずである。シュムペータは経済学者ではなく、経営学者である。たしかに一企業が危機感を持ち、古い生産技術から脱却し時代に対応し、発展を続けるケースはあり得る。
もっともシュムペータについては今日誤解されていると、シュムペータを擁護する意見が一方にある。シュムペータはあくまでも「創造」が伴う「破壊」の推進を念頭においていたというのである。実際、今日のような「創造」について何もなく、ただ「破壊」を続けばそのうち「創造」が生まれるといった極めていい加減な議論が横行していることに対して、もしシュムペータが生きていればどう感じるか興味はある。しかし日本のシュムペータの創造的破壊の信奉者は、極めて幼稚であり、そのようなことまで考えていない。
シュムペータはケインズの需要創出政策を否定していたと一般的に理解されている。しかし後半生の著書の中では、ケインズの需要創出政策に賛同していると丹羽春喜大阪学院大学教授が以前言っておられた。シュムペータは、一番弟子のサミュエルソンがケインズの元に走ったり、著書の「ビジネスサイクル」がケインズの「一般理論」とぶつかり出版が延期されたことによって、たしかに当初はケインズに対して感情的になっていた。つまり日本のいい加減な経済学者やインチキエコノミスト達が、自分の都合の良いところだけをその時代のシュムペータの著書や発言から引用しているのである。
しかし国や社会は、企業と全く別物である。国や社会はシステムであり、むしろ企業が生残るために排除したものを受止める必要がある。その国が企業と一緒に創造的破壊(実態は創造なき破壊)を進めるなんて考えられない行為である。創造的破壊が進めば、社会のシステムが壊れる。企業は再生可能でも、社会のシステムの再生は難しい。一旦壊れ始めたら、どんどん崩壊が進むのが常である。今日の日本を見ればこのことは明らかである。
社会のシステムが壊れると大帝国も簡単に崩壊する。大帝国は内部から崩壊し、最後は他国の侵入や侵略によって滅びている。ダイエーがおもちゃにされている様子を見ていると、いよいよ日本も分水嶺に立っていると感じる。シュムペータの創造的破壊が今日の理解では、「邪教」そのものになっている。
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