- 米国経済の行方
文芸春秋のオピニオン雑誌「諸君」の10月号で、「日米「抱き合い心中」への道行」と言う刺激的なタイトルの対談が行われている。前半は、バブル崩壊後の米国経済の、世界経済、とりわけ日本経済への影響がテーマである。後半は、最近、「政府の貨幣発行特権を使って銀行の不良債権の始末をする」と言うアイディアを打出した榊原英資慶大教授と、昔から「政府貨幣発行特権による有効需要政策」を主張していた丹羽春喜大阪学院大学教授の間の論争になっていた。対談にはこの両教授の他に、本山美彦京都大学教授と浜田和幸国際未来科学研究所代表が参加されておられた。
米国経済の混迷、今後、急速な回復が困難と言う認識では、参加者の意見はほぼ一致していた。また、丹羽教授が提起した世界恐慌の可能性については、程度の差があったが肯定する意見が多かった。問題は、今後の米国と世界の経済の行方である。米国経済拡張による世界経済成長と言う、ここ10年間のパターンは一応終わると言う意見が強かった。今後は、米国だけでなく、ヨーロッパや中国などのアジアの存在が相対的に大きくなり、多極化する方向で意見がほぼ一致していた。
米国経済を中心に、色々な方面に話が及んだ。「米国の会計疑惑」「グローバル・スタンダードの行き詰り」「所得の格差」など、昨年の同時テロ後、何かと話題になっている事柄である。 たしかに「輝かしい」と称された米国経済が一遍に色褪せたものになった印象である。
もっともこれまでの米国経済が本当に「輝かしい」ものであったか筆者は疑問に思っている。マクロ経済ではたしかに経済は成長していたが、一方で「所得の格差」が非常に拡大したのも事実である。自己破産者の数も年間140万人と依然高い水準である。ディスカウントショップのウォルマートの売上が急増しているのも、それだけ貧乏人が増えたと言うことを示している。米国での精神安定剤の売上高は異常に大きい。これから経済の成長がスローダウンすれば、色々な問題が顕在化してくるはずである。
ここで筆者の持論を述べることにする。このような米国の変質は、何も同時テロ後に起ってきたとは考えない。ナスダックのピークが2,000年の年初であり、それ以降下落を続けている。つまり米国経済の行き詰りは、既にかなり以前から顕在化していたと考えられる。多くの識者は、これをITバブルの崩壊が原因としているが、これに加え、筆者は別の要因を考えている。それは米国の貯蓄率がほとんどゼロになっており、消費の拡大が限界に来ていたと言うことである。設備投資の頭打ちとこの消費の限界が、米国の経済成長を急速に減速させたと見ている。
米国では、10年間と言うもの、毎年のように貯蓄率が低下し、消費が増大すると言った実にめずらしい現象が起った(消費性向、貯蓄性向と言うものは、本来もっと安定しているものである)。これは政府に代わって、消費者が毎年景気対策費を増額していたのと同じ効果がある。このことによって政府は、財政支出を削減することができ、財政は黒字化したのである。日本と全く逆の現象が米国では起っていたのである。しかし貯蓄率がゼロになった段階で、これ以上の消費の拡大は事実上無理になったと考えられる。米国は、今日、金利を引下げによって、車や住宅取得の促進し、住宅ローンを抱えている人の購買力の増大を図り、経済の底割れを回避している。つまり米国人は、借金を増やして、なんとか消費を維持しているのである。
ITバブル期の間、米国ではめずらしく活発に設備投資が行われた。前述の通り、消費の拡大とこの設備投資の増大で、米国は経済成長できたのである。しかし過大な投資の結果、設備も過剰となっていた。通信設備はその典型で、稼働率は数パーセントと言う酷い状態である。これでは当分の間とても設備投資が増えることはない。消費と住宅建設がほぼ限度にあり、投資が増加しないと言うことは、輸出でも増大しない限り(よほどの米ドル安にもならない限り可能性は小さい)、米国経済は成長しないと言うことになる。そして残された需要項目は政府支出だけである。経済の成長を決めるのは、あくまでも需要の大きさである。つまり今後の米国の経済の拡大は、この政府支出に掛かっていると言える。
対談に話を戻す。この政府支出に関して、浜田和幸国際未来科学研究所代表は注目される発言を行っている。米国は、レーガン時代の高金利による米ドル高政策(正確にはボルガーFRB議長の政策)によって、製造業は壊滅的な打撃を受け、産業の空洞化が起った。残った製造業は、航空・宇宙・軍事産業などだけである(米国の産業は多かれ少なかれ軍事支出に関連しているが)。したがって経済を立直すと言った場合には、どうしても軍需指向にならざるを得ない。今日、首都ワシントンでは、ペンタゴン関連企業が、目抜き通りにどんどん進出し、ちょっとした不動産バブルが発生していると言う話である。
ブッシュ政権が対テロ戦争やイラクへの攻撃に力を入れているのも、このような米国経済の事情と無関係とは言えない。また鉄鋼産業をセーフガードで保護しようとしているのも、このような流れの一つと筆者は考えている。日本では、米国経済を「小さな政府」と思っている人が多いが、とんでもない誤解である。むしろ今後、米国は、軍事支出の増大(年間50兆円)で、さらに「大きな政府」に一歩歩み出しているのである。
- セイニア−リッジ政策
対談の後半は、「政府貨幣(紙幣)発行特権」、つまりセイニア−リッジ政策にまつわる議論である。主に「継続的な政府貨幣発行特権による有効需要政策」を主張している丹羽教授と、これを銀行の不良債権処理に限定し、しかも一回に限りとする榊原教授との間の論争である。デフレギャップを埋める手段として、セイニア−リッジ政策を行うと言う丹羽教授と、あくまでも「銀行の不良債権処理」だけにこだわる榊原教授との論争は平行線のままであった。
筆者は、これまで本誌で論争の仕方を何回が取上げたことがある。議論が錯綜する原因は、両者が議論の前提を明らかにしないことである。同じようにセイニア−リッジ政策推進、容認する立場なのに、これだけ議論が別れると言うことは、両者で現実の経済に対する認識に違いがあるのである。丹羽教授は今日のデフレ経済が良くないと言う認識であり、これを是非とも解決する必要があると考えている。一方、榊原教授は、今日の日本経済は良い状態ではないと言う認識を持っているが、これを需要政策で支えることにははっきり反対している。そして今日のデフレ経済はたいした問題ではないと言う認識である。ただ金融インフラが壊滅しては、経済が混乱するから、「銀行の不良債権処理」には「金」をつぎ込むと言う考えである。
今日のようなデフレ経済を解決すべき問題と捉える人と、榊原教授のように、これは経済の50年、100年の循環的な流れであるから、政策で解決するものではないと言う人との間では話が噛み合わない。どうも榊原教授はシュムペータの信奉者であるようで、「創造的破壊」と言うものが必ずあると主張している。したがってケインズ流の有効需要政策は、これを遅らせるからむしろ有害と考えている。そして榊原教授は、経済は落ちるところまで落ちれば、そこで何か破壊的な創造が起り、次の経済発展が起ると固く信じているようである。
丹羽教授はこのような榊原教授の考えを「ニヒリズム」と指摘している。筆者も、これは「妖術経済学」の一種と考える。しかし大蔵省の財務官だった榊原教授がこのような考えを持っているとしたなら、政府の高官や政治家にもこのような考えが浸透している可能性が強い。このような「創造的破壊」(まさかこれは大戦争のことを言っているのではないと思われるが)と言った、荒唐無稽な考えに染まった人々が案外多いことも考えられるのである。そして政府の財政支出に鋭く反対する人々は、新古典派(中でもニュークラシカルの人々)だけではなく、このようなシュムペータの信奉者もいることが注目される。このことはかなり重要なことであり、本誌でも近々取上げることにする。しかし政策遂行者が、本気で「創造的破壊」みたいなものが将来起ると信じているようなら、日本経済は本当に「どつぼ」に嵌まることになる。
丹羽教授のアイディアには、本山京都大学教授も興味を示している。「今日の経済の問題は金が死蔵されていることであり、政府が旗振りをして資金の流動する大勢を作る必要がある。呼び水として政府紙幣発行は一つのアイディアであり、この資金を都市改造なんかの大プロジェクトに投入すべきである」と述べている。筆者もこの意見に賛成である。浜田氏も都市改造やエネルギー開発の必要性を訴えていた。ようするに榊原教授だけが、ちょっと浮いた存在であった。
この雑誌の対談で、方法や資金の使途に違いがあっても、セイニア−リッジ政策と言うものが多少でも世間に知られたことに意義はある。また現実にセイニア−リッジ政策を押し進めようとすれば、人々は色々な危惧を抱くはずである。我々がどれだけ「物価上昇があっても、たいしてものではない」と説明しても、人々の疑念の全て払うことは難しい。さらに丹羽教授の「毎年この政策を続ける」と言う考えに抵抗する人もいる。
つまりセイニア−リッジ政策を実際に行う場合には、色々な意見との妥協と言うものが必要になると考える。大きな抵抗は「物価上昇の懸念」と「モラルハザード」と考える。したがって榊原教授の主張のように「一回限り」と言うのも、良い落とし所かもしれない(結果良く、問題が生じないならもう一回やればよい)。金額を小さくする(丹羽教授は毎年40兆円と想定している。これは日本のデフレギャップの大きさを根拠としている)ことも考えられる。とにかく現実の政策として一回でも行ってみることが大事である。ただし榊原教授の意見のように「銀行の不良債権処理」に使うかどうかについては、疑義がある。やり方によっては、さらにデフレ経済を深刻にしかねないからである。
それにしても榊原教授はケインズ政策を毛嫌いしている。「ケインズの打ち立てたマクロ経済学のフレームワークが今日有効であるか疑問」とまで言っている。ただし理由は述べていない。また榊原教授は「資源の制約などがあるなかで、日本のような成熟社会がこのまま成長政策をとっても良いのか」と、突如「ローマクラブ」のような発言を行う。とにかく発言はぽんぽん飛んでおり、掴みどころがない。例えば榊原教授は市場至上主義者のようではあるが、市場の調整機能は信じていないようである(例えば市場経済においては、エネルギー資源に制約が発生し、エネルギー価格が上昇しても、これによって省エネ技術の開発や代替エネルギーの開発が進み、経済の成長は可能)。
述べたように榊原教授はシュムペータの信奉者のようである。ところでシュムペータの優秀な弟子だったのがサミュエルソンである。ところがサミュエルソンは、シュムペータの元を去り、ケインズへ走ったのである。このような事情があってか、シュムペータはケインズに対して辛辣な言動をずっと続けたのであろう。しかし筆者は、単純にケインズの考えの方が正しいと思ったから、サミュエルソンはケインズの元に走ったと考える。とにかく今回取上げた「諸君」の対談は、興味深く、色々と考えさせるテーマを与えてくれた。
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