平成9年2月10日より
経済コラムマガジン




02/7/1(第258号)
小泉政権の本音
  • ディベートの達人
    日本人は、ディベートと言うものの力をつけることが大切と言う声が大きくなっている。ある政治学者も、日本人はもっとディベートの訓練をすべきと発言している。たしかに米国に留学した学者達は、このディベートの訓練の受けているらしく、中にはディベートの達人と言われる人もいる。また政府関係者や官僚だけではなく、政治家の中にもディベートに強い人が見受けられる。

    ところでディベートは、議論とよく勘違いされている。ディベートは普通の議論とは違う。普通の議論はディスカッションと言うことになるのであろう。ディベートは一種のゲームとも言える。二人、あるいは二組に分れ、対立するようなテーマを題材に議論し、どちらの言い分がより説得力を持つか競うのである。通常、ディベートには判定を降す審判がいて、勝敗を決める。

    実は、筆者も昔このディベートとやらをやったことがある。テーマは「安楽死の是非」で、相手は学生のチームであった。どちらのチームが「是」でどちらが「非」かは籤で決めた。筆者の属するチームは「是」、学生チームが「非」と言うことでディベートを行った。

    結果は、コテンパンに筆者達のチームが負けた。まず準備が違っていた。学生のチームは合宿までやって、我々とのディベートに備えたと言うことであった。力の入れ方が違ったのである。そして籤でどちらに転がろうと、対処が十分できていたのである。

    しかし筆者は「二度とディベートなんかやりたくはない」と言う感想を持った。議論を行っても、何の実も得られないのである。先方は「安楽死は殺人だ」の一点張りであった。もっともディベートの目的は、議論を行って何か価値のある結論を得ることではない。とにかく相手を説き伏せ、判定で勝つことである。そして一番重要なことは、籤でどちらのサイドかを決めるのであって、ディベートでは自分の考えはどうでも良いと言うことである。

    そしてディベートが得意な者同士が議論を始めると、どうどう巡りの議論が延々と行われ、結論は出ない。「神学論争」と言うものに近い。「朝まで生テレビ」ではないが、百年間議論を行っても、結論が出ないのである。もっとも本音をしゃべらないから、互いに傷つくこともない。各党の幹事長が参加している討論会などは、この典型である。

    このようにディベートにおいては、本人の考えは隠される。「ではおたくは本当はどう言う考えているのか」と質問したくなるのである。しかし今日、日本においてもディベートの力のある人物が重宝される傾向にある。


    これは全くの筆者の私見である。ディベートのような議論の方法が米国で重視されるのはそれなりの理由があると思われるのである。米国のような複雑な多民族で国家が成り立っている国では、議論を行い、物事を進めるにも、色々な障害があるのである。「本音」を明らかにすることができないのである。本心では「おれは何々人は嫌いだ」「何々教の者は信用できない」と思っていても、日常の生活ではこれらの人々と関わりを持たねばならないのである。互に本音を言い始めたら、とても国家がもたないのである。

    このような国では、自分の意志を通すには、どうしても「ああだこうだ」と言って相手を説き伏せる必要がある。「ルールで決まっている」「それは正義に反する」と言った具合である。これを職業的に行っているのが、弁護士である。このようにディベート力を身につけることは、米国のような特殊な国の中で生きていくための一種の「知恵」と考える。

    そして元来、反対に日本では、このようなディベートに強そうな人物は嫌われた。「理屈っぽい」「屁理屈をこねる」「言葉に心がない」と批難されるのである。また数年前、問題を起こした宗教団体のスポークスマンには「ああいえばじょうゆう」と言う人物がいて、世間の顰蹙をかっていた。筆者も、日本人は米国人のマネをする必要はなく、もっと本音で語り合うことが、問題の解決に繋がると考える。たとえば今日、日本経済がかかえる「デフレ問題」の解決には、もっと本音の議論が必要と考える。

    さらにもう一つ。不思議なことに、人々は、公開の場所では本音を語らない傾向がある。特にテレビに出ると、人々は建前ばかりを並べることになる。会議を公開し、ガラス張りにすることにこだわる人々がいる。このような人々は、「密室」で物事が決まることに憤りを感じるらしい。しかし「密室」の方が本音が語られるのである。


  • ディベートに勝つ方法
    今日、テレビに登場する政府関係者はディベートの達人が多い。竹中経済財政担当相もその典型的な一人である。どれだけ攻撃されても、めげずに反論している。しかし聴いている者の心は全く打たない。番組が終わっても、結局何を言っていたのかさえ忘れるくらいである。

    このようなディベートの達人を相手に議論を行っても、普通の人々が勝つ可能性はない。ましてや相手を説得し、言動を変えさせることは不可能である。しかし筆者には、勝てないまでも、負けない議論の仕方と言うものがあると思われる。

    議論を実あるものにするには、互いに何を前提に主張を行っているかを明らかにする必要がある。「神学論争」と言う場合には、たいてい互いに前提条件と言うものを明らかにしない。このような状況で議論を行っていては、何年議論を行っても結論は出ない。そしてどちらの前提が正しいか、あるいは現実的であるかを検証すれば良いのである。検証する方法としては、互いにデータを持ち寄る場合もある。そしてどちらの前提がより正しいかはっきりすれば、議論の余地もあまりないはずである。

    今日、問題になっているのが「デフレ対策」である。市場も政府の「第二次デフレ対策」に中味がないことをいやけして、下落を続けている。この政府の状態に対して世間の批難が強まっているのである。しかし筆者に言わせれば、どちらもどちらである。先週号で述べたように、小泉政権はデフレに関心がないのである。小泉首相にとって一番の関心事は構造改革、具体的には郵便局の民営化である。しかしさすがの小泉政権も「デフレ経済の問題」に関心のないことをあからさまにはできない。だから口先だけで「デフレ対策」と言っているに過ぎない。したがって「第二次デフレ対策」に中味がないのは当り前である。

    小泉政権が「デフレ対策」に興味がないことは、これまでも色々な場面で垣間見られた。昨年の同時テロ後に景気が急落し、補正予算を策定した時に竹中経済財政担当相も思わず本音を漏らした。「デフレスパイラルに陥ることはまずいので補正予算を組んだ」と言っていた。つまり「デフレはしょうがないが、スパイラル的に落込むのはまずい」と言っているのと同じである。またデフレ経済によって失業率が高くなっても、小泉首相や竹中経済財政担当相はさかんに「これは求人と応募者のミスマッチ」と言っている。しかし有効求人倍率が「1」よりずっと小さいのにミスマッチはないであろう。特に50才以上の人々の有効求人倍率はほぼゼロである。とにかく彼等は、失業問題には全く関心がないのである。

    このよなディベートの達人を相手にするのは大変であるが、まず彼等の言葉のはしばしから、彼等の本音や前提と言ったものをさぐることが大切である。そして次には彼等の本音や前提が、今日の状況でいかに現実離れしているかを指摘することになる。実際、高卒にまともな就職先がない問題より、どうして郵便局の民営化の方が重要と考えるのか糾す必要がある。

    ところで一方の「デフレ対策」がないと言って小泉政権を攻撃しているマスコミも、実はデフレ経済を深刻に考えていない。先週号で日経新聞の社説を紹介したが、主張している税制改革ぐらいでデフレ経済の問題が解決するはずがない。社説の中味を読む人はほとんどいない。つまりタイトルだけを読んで、日経新聞も「デフレ対策」を訴えていると分かってもらえば良いのである。株価も連日のように下がっているので、とにかく政府の無策を訴えておけば良いと言った安易な考えなのであろう。実際、毎日、日経新聞を読んでいるが、デフレ経済の深刻さを伝える記事はほとんどない。

    このようにデフレ経済の深刻さを問題にしていない政府に対して、同じく深刻さを感じていないマスコミが攻撃しているからややこしいことになるのである。したがって我々は、このような政府やマスコミに対して、デフレ経済がもたらす問題点を客観的に示すことが重要である。

    日本には昔から「腹を割って話する」とか「胸襟を開く」と言う言葉がある。つまり「本音」を語り合うことがまず重要である。「今日のデフレ経済で苦しんでいる」「政府は何とかしろ」と本音を出すことである。今日の風潮では、政府や識者は、デフレ経済によって引き起されている問題を個人の責任にすりかえようとしている。デフレ経済は、政府のマクロ経済政策の失敗の結果である。このことをはっきりさせる必要がある。



来週号は、セイニア−リッジ(政府の貨幣発行特権)政策についての最近の動きについて述べたい。

構造改革派を自認する榊原慶大教授が、中央公論で「政府紙幣の発行で過剰債務を一掃せよ」と主張している。我々の主張しているセイニア−リッジ政策とどこまで共通し、どこから違うのか、来週号で取上げたい。少なくとも日本のデフレ経済の解決を目指しているところは共通しているようである。

為替が動いている。原因は、米国経済をめぐる不透明感から、米国から資金の流出が続いているからである。円高と言うより米ドル安である。当初、筆者は、当局の介入で123円を維持するものと考えていたが、先週述べたようにこれはどうも間違いのようである。どうも政府・日銀のスタンスは「急激な円高は困る(に変わった)」と解釈すべきである。したがってどこまで円高が進むかちょっと分らなくなったと言うのが、正直な感想である。

若い市場関係者がテレビで「資金が米国から逆流して来ることは、良いことで、チャンス」とまた訳の分らないことを言っていた。だいだい資金が逆流してきて円高になることが、日本にとって何故良いのだ。資金需要が旺盛な国に資金があってこそ、資金は活動するのである。具体的には消費意欲の強い米国に資金があれば、消費に回り、日本からの商品輸出に繋がる可能性がある。資金需要の乏しい日本に戻ってきても死に金になるだけである。せいぜい国債が買われるのが関の山であろう。実際、株式市場で外資は売越しに転じた。株式市場の取引も日々細っている。



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