- デフレーションに対する誤解
これだけ日本経済の低迷が続くと、各局のワイドショーでも「デフレ経済」を取上げることがある。たいてい番組前半のデフレーションの解説は適切である。しかし番組の最後のコメンテータの発言が問題である。フジテレビの場合は、意見を求められた岩上と言うコメンテータが「だからデフレ経済から脱却するためには、政府の財政支出の無駄なものを徹底的に削る必要がある」と答えていた。筆者は、最後のこのコメントを聞いて、腰を抜かさんばかりに驚いた。どうも日本のテレビ業界では「言論統制」が行われているみたいである。
デフレーションはデフレギャップが存在している時に起る経済現象である。つまり供給が多すぎるか、あるいは需要が少なすぎる場合に起る。通常、デフレーションの場合には物の価格が下落する。ただ注意が必要なのは、価格はデフレーションでなくても下がる場合があることである。つまり価格が上昇するのがインフレで、価格が下がるのがデフレと言う単純な認識は間違いである。価格の変動は、需給の関係以外の要素でも起るのである。これについては、別の機会にまた取上げる。
デフレギャップが存在する場合には、企業倒産が増えたり、失業が発生する。そのため政府は財政支出を増やし、デフレギャップを埋めようとする。通常、財政支出を増やした場合、その数倍の需要が増える。これを乗数効果、あるいは経済波及効果と呼ぶ。そして財政支出の乗数効果は、支出の内容にそれほど左右されない(特に日本では、もう一つの財政政策である減税の乗数効果は極めて小さい)。たしかに公務員の給料を増やした場合には、一部が貯蓄され、乗数効果はある程度減殺されると思われる。しかしそれ以外で、たとえば公共投資に使おうが、パソコンを買おうが、乗数効果にたいした差異は生じないものと考えられる。
たしかに公共投資の内容によっては、乗数効果が異なると言う議論がある。しかし本誌で前にも述べたように、短期的にはたいした差異はないと筆者は考える。もし差異が生じるとしたなら長期的な効果である。しかし成田空港を見て解るように、民間の投資を誘発するような効果的な公共投資が難しいのが日本の現状である。日本では地権者の権利が強く、実行する価値はあるが、土地の買収が難しい公共投資が多い。したがって筆者は、ずっと大深度地下を利用した公共投資を訴えているのである。
冒頭の話に戻る。デフレギャップを埋めるために財政支出を増やす場合、支出の内容ではなく、増やす財政支出の規模が重要である。ところが岩上と言うコメンテータの発言は、なんと財政支出を削れと言っているものと受け取られる。しかし財政支出を削った場合には、逆の乗数効果が働き、デフレギャップはさらに大きくなり、デフレ経済はもっと深刻になる。このようなことはちょっと考えてみれば直ぐに解ることである。つまり岩上氏の主張は、デフレ経済をさらに悪化させることになる。
しかしこの人物のコメントの巧妙なところがある。「私は、無駄な支出を削れと言っているだけであり、財政支出の規模を縮小しろとは一言も言っていない」といつでも言い逃れできるような表現をしている。たしかに利巧な発言である。しかしテレビの視聴者は、このコメンテータの話を聞いて、「財政支出を削減することがデフレ経済の解決策」と誤解するのである。実に日本のテレビにはこのようなタイプの出演者が多すぎる。このように日本国民は、ずっと財政支出を増やすことは「無駄」で「悪」と言った観念を知らない間に植え付けられているのである。
そこで次に「無駄」と言う言葉について考えてみる。そしておそくこの逆の概念が「経済的」と言うことになろう。つまり「無駄」を徹底的に省けば、「経済的」と言うことになると考えるのである。しかし面倒なことは、人によって「無駄」や「経済的」と言う概念が大きく違うことである。どうしても人によって価値観と言うものが違うのである。さらに時代や状況の移り変わりとともに価値観も変化している。たとえば戦後の日本のように、皆が飢えていた時代には、「米」などの穀物は、誰にとっても貴重であった。しかし今日のよう飽食の時代には、事情も変わってくる。美容や健康のために食を控えている人もいる。レストランでの食べ残しも一概に「無駄」と決めつけることができないのである。
ややこしいのはその人の立場や住んでいる場所で、同じ事柄が「無駄」になったり、「経済的」になったりする。特に政府の財政支出を「無駄」かどうか判断するのは難しい。民間の企業なら、支出に対してどれだけの見返りがあるかなど、一定の基準が考えられる。しかし国や地方公共団体の支出には、明確な基準がない。「福祉」と言っても、その恩恵を受けられない人々や自己責任を重視する者には無駄と感じるであろう。非武装中立を主張している人々にとっては、防衛費は無駄な支出そのものである。実際、この話にはきりがない。せいぜい選挙民から選ばれた議員が、予算を最終的に決定すると言うプロセスがあることで納得せざるを得ないのである。
ところで「無駄」な支出としていつもやり玉に上がるのが公共投資である。都会に住む者にとっては、整備新幹線や北海道の高速道路は無駄の典型であろう(本当は地方で行われる公共投資の恩恵は都会にも還流される。一方、都会で行われる公共投資の経済効果は地方にはほとんど波及しない。これについては別の機会に述べたい。)。しかし一方、今日話題になっている都市再生事業は、地方にとっては関係のないことである。このように公共投資ほど、立場の違いによって「無駄」かどうか判断が分れるものはない。とにかくデフレ経済の解決が、どうして財政支出の無駄を削減することによって実現するのかこの岩上と言うコメンテータは道筋を示して説明すべきである。
- 一見無駄と見られる財政支出
日本経済は、ずっと過剰貯蓄、あるいは過少消費の状態が続いている。貯蓄が大きくても、これが全て民間の投資に使われているのなら、マクロ経済の上ではバランスが取れていることになる。しかし日本の貯蓄は大きく、とても使いきれるものではない。これまでは国内で消費されない生産物を輸出して、これを補っていた。しかしこれでも消費が不足するため、政府や地方が赤字国債や建設国債、そして地方債を発行し、財政の支出で補完していたのである。
ところが昨今の風潮で、政府は緊縮財政に転換した。さらに地方もこれ以上借金をすると赤字公共団体に転落すると言うことで、国以上の厳しい支出削減を行っている。したがって日本は輸出に頼る他はなくなっているのが現状である。しかし輸出は、為替の動向に左右され、相手国の購買力に依存するものである。小泉総理は、日頃から「自己責任が大切」とりっぱなことを言っている。しかし今日の日本の現状は、防衛が米国頼りであるだけでなく、経済も米国を始めとした世界に依存しているのである。周りの政府関係者も、輸出頼りの経済に何の疑問を持たず、いつも円安請いをしている。個人に対して「自己責任」を求めるなら、国も内需拡大を行い、他国に依存する必要がない経済を目指すのが本当であろう。
マクロ経済の理論上では、貯蓄と投資が一致することになっている。したがって日本のように貯蓄が多すぎる場合は、投資に一致するまで貯蓄が減ることになる。貯蓄は所得の一定の割合である。つまり小さな投資額に見合うような貯蓄額になるまで所得は減ることになる。これまでの日本はこのような極端な所得の減少を避けるため、輸出を行い、さらにこれでも不足する分を財政支出の増加で補ってきた。しかし輸出の頭打ちと緊縮財政によって、日本経済は縮小均衡を余儀無くされている。まさに今日の経済のマイナス成長がこの縮小均衡の過程を示しているのである。
政府と地方の緊縮財政が今後もつづけば、国民所得が半分になってしまうこともあり得る。つまり国民所得が半分になってようやく貯蓄と投資が一致すると言う事態も考えられると言うことである。これをもっと分りやすく表現にすれば「日本は貯蓄ができなくなるほど貧乏になる」と言うことである。実際、多くの失業者は貯蓄を取崩しているのが現状である。
今、小泉政権が世界に公約して行おうとしているデフレ対策は、投資減税などによる、設備投資の喚起である。しかし経済の先行きが真っ暗なのに、減税くらいで、民間が設備投資を増やすとはとても考えられない(減税ぐらいで投資を増やすと言う企業経営者は相当のおっちょこちょいである)。まず政府は、もはや国民が政府を全く信頼していないことを認識すべきである。ちなみに、そのうち政府の政策が方向転換し、経済も上向くと誤解し、バブル崩壊後も設備投資を増やした企業が、これまで破綻しているのである(これについてはまた別の機会に取上げたい。)。とにかく減税ぐらいで設備投資が盛り上がると言う状況ではない。したがって考えられるのは、余った資金が海外に流れ、為替が円安となり、輸出が増えるかもしれないと言う従来のパターンである。
本誌で、前にも述べたように、投資には二面性がある。一つは需要の増加である。投資が増えれば、その乗数効果によってその数倍の最終需要が増えることになる。そしてもう一つの側面が、生産力の増加である。ところが今日の日本の生産力は、既に需要をはるかにオーバーしている。このデフレギャップは30%ともそれ以上とも言われている。
日本の企業は、競争力を維持するため毎年ある程度の投資を行っている。またこの投資レベルは、国際的な比較においては決して低いものではない。このような状態で、政府は、減税を行えば企業は設備投資をさらに増やすと言った幻想をいまだに持っているのである。ところがこれだけ収益環境が悪くなれば、むしろ企業は収益を維持するために投資を減らす方向に進む。この典型的な例が電力会社である。電力自由化で、競争が激しくなり、電気料金が下がった。すると電力会社が真先に行ったのが設備投資の抑制であった。このため重電各社は壊滅的な打撃を受けたのである。
これだけデフレギャップが大きい日本では、政策的にうまく投資を誘発できても、直ぐに生産力過剰に陥り、新規の投資はストップするのである。そして今日日本に求められているのはまさに「生産力を伴なわない投資」である。具体的には住宅投資(日本の場合には消費と言う側面が強いが)や政府による投資、つまり公共投資である。日本の過剰貯蓄と言う現象が続く限り、一定の「生産力を伴なわない投資」を続けない限り、日本経済は縮小均衡に陥るのである。
筆者は、毎月、丹羽春喜大阪学院大学教授を中心にした「セイニア−リッジ政策」の勉強会に参加している。先月は、ゲストとして三極経済研究所の齋藤進代表が出席されていた。そして勉強会の後、齋藤氏と喫茶店でお話する機会があった。ここで話題になったのが、「生産力を伴なわない投資や一見無駄と見られる財政支出」である。齋藤氏は、戦前の米国の大恐慌時代には、米国は軍事費をGDPの15%(今日の日本の防衛費は約1%)まで増やしたと言う話をされておられた。たしかに軍事力は物を破壊するものであり、見方によれば、これほど無駄なものはない。
今日の日本のように、これだけデフレギャップが大きくなれば、民間の設備投資主導による経済の浮揚はちょっと無理である。かと言って軍事費をGDPの15%にすることも現実的ではない。やはり公共投資を中心とした財政支出を大幅に増やす施策しかないのである。しかしこれまで国民、政治家、官僚そしてエコノミストやマスコミがこれらをあまりにも「無駄」と言い過ぎた。そしてこのような財政支出を激しく攻撃してきたため、方向転換ができなくなっている。ようするに日本人は自分で自分の首を絞めている状態に陥っているのである。
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