- 巷にあふれる観念論者
今週号は、いつもとは違って、筆者が日頃強く感じている最近の世間の風潮とか論調の奇妙さについて述べる。ちょっと取り留めのない話になるかもしれない。 今日、さかんに話題になっている「構造改革」にしても、何が「構造改革」なのかさっぱり分らない。人によって銀行の不良債権処理のことであったり、財政再建のことであったり、特殊法人の民営化のことであったり、実にばらばらである。公共事業を減らすことが「構造改革」と言う者まで現れている。したがって「構造改革」の目的も人によってばらばらである。財政の立直しであったり、日本産業の国際競争力の回復と言う人もある。
とにかくいい加減な人々が多すぎる。経済学者や各種の研究機関も、先に結論を決めてから、数字を適当にいじり、自分達の結論に合致するような結果が出るようなシミュレーションを平気で行っている。そして「やはり財政再建は急がなければ日本経済の将来は真っ暗」とか「不況の原因はやはり銀行の不良債権の存在」ともっともらしく主張しているのである。
「構造改革」と言うスローガンは観念論者が喜ぶものである。改革と言う言葉がリフォームと言う意味なら、何でも現状より良くなることが改革である。たしかにこれに賛成することがあっても、誰も反対することはない。しかし現実に行われようとしているのは、改革ではなく、変革あるいは変化と捉えるとするなら、良くなることもあるが悪くなることもあり得る。改革ではなく改悪と言うことも十分あるのである。
日本には段々観念論者が増えており、ときおり意味のない改革運動が起っている。10年前には政治改革であった。政治改革をやれば政治が良くなると言う話であった。しかし結果的には、小選挙区制で観念論者の二世、三世議員が増えただけである。しかしこのことは日本の将来にとって由々しき問題である。また政治改革騒動は、バブル崩壊後日本経済が難しい局面に差し掛かった時に起った。これによっていわゆる「政治空白」が生まれたのである。そしてこの混乱によって、経済政策は後手を踏むことになり、バブル崩壊の影響を今日まで引きづっている原因にもなっている。
マスコミもこのような流れを助長している。驚いたことに、テレビ報道によれば、11月20日の全ての全国紙の朝刊の社説は、「小泉首相は、守旧派の反体勢力の抵抗にひるまず、改革を断固つら抜け」と言うものであった。全ての全国紙である。しかし筆者は、反体勢力とレッテルを貼られている、ほとんどの県知事や国会議員の主張の方がずっと正しいと判断する。 新聞の社説などは、よほどの暇人でなければ読まないが、それぞれの新聞の論調を代表していることは間違いない。たしかに小泉首相に反対する論調の記事は新聞ではほとんど見かけない。これは新聞自身が事実上の検閲を行っているからである。
当然、一般の人々は、新聞などのマスコミの論調に影響を受ける。誰もが内容を吟味せずに、小泉首相の改革の進め方が正しいと漠然と思うのである。人々は、いつの世もマスコミの影響を受けやすい。最終的に「泣き」を見るのは自分達と言うことを知らないままに。
新聞の論調が一斉に一つの方向に揃うと言うことは極めて危険な徴候である。しかもこれだけ現場から反対する人々がいるにもかかわらずである。そして筆者には、今日のムードは第二次世界大戦前夜と非常に似ていると思われる。それにしても今回の新聞の行動は実に不思議である。しかし筆者には、新聞のこのような異常な反応に対して、一つの事が思い当たる。これについては別の機会に述べたいと思う。ポイントは「一斉」と言うことである。
いつの世も、世間には観念論者と言う者がいるものである。しかし以前は、実際に採用される政策はもっと現実に即したものであった。もっともその場合にも、一応、観念論者の存在も尊重し、御意見を聞くが、実際に行うのは現実的な政策であった。ところがここ10年くらいを見ていると段々、政策そのものが観念的になってきた。橋本政権の財政再建政策など典型例である。この他にも「早期是正措置」「ペイオフ解禁」など数限り無い。これらは日本の現状を全く考慮しない、観念論的政策である。
観念論の広がりは、何も経済政策の分野だけではない。教育行政などの分野にも及んでいる。「小さい頃から自主性を重んじ、自由に育てれば、自分で物事を考えられる個性的な人間が育つ」「必須カリキュラムを少なくし、自由選択の科目を増やすことによって伸び伸びとした多様な人材が養成される」と言った風である。まるで中途半端な実存主義である。テレビによく出演する文部官僚はヒゲを生やしていた(最近は剃っている)。それにしても最近、ヒゲを生やした役人が目立つようになった。これも本人達にとっては実存主義なのであろう。しかし西欧諸国のようにカソリックのような確固たる厳格な規範がない日本でこのような教育を行えば、どのような人物が育つかははっきりしている。学級崩壊で教室を走り回る児童や、繁華街を我が物顔で、つばをペッペと吐きなが歩いている若者の群れも、この日本の実存主義的教育の生産物である。サルトルも日本の教育の現状を見れば思わず「クレージ」と叫ぶはずである。
観念論の広がりは何も政界や官界に止まらない。たとえば財界や労働界にも広がっている。経団連は政府に幾度となく「ペイオフ解禁」を申入れている。今日の日本の情勢で、完全にペイオフ解禁を実施したらどうなるか、ちょっと考えてみれば良いのである。経済界を代表しているのなら、むしろペイオフ解禁に断固反対すべき立場であろう。
労働界も良い勝負である。昨年は連合が政府・日銀に「ゼロ金利解除」を申入れている。頭が痛くなる。どうも金利が低くて労働者が困っていると言うのが理由である。しかし労働者でも住宅をローンで買っている人も多くいるはずである。またたとえゼロ金利解除を行っても、どれだけの利息が増えると言うのであろうか。そしてこの「ゼロ金利解除」は実際に実施されたが、全くの失策として半年後には撤回されているのである。だいたい古典派の経済学では、労働者は貯蓄しないことを前提に理論が組み立てられているほどである。金利生活者が一番喜ぶ金利の引上げを、なぜ労働組合が率先して働きかけていたのか、どれだけ考えても理解できない。本当に観念論者の考えていることは奇妙さを越えている。
- アジテータの小泉首相
日本の社会においては、観念論の台頭は、一定の期間を置いて繰返されるようである。明治維新の中心人物は地方の貧乏下級武士であり、彼等は元々現実的な思考の持主である。また当時の日本は、周りのアジア諸国が列強に植民地支配されている厳しい現実に直面していた。したがって彼等にとって、現実的な政策を採ることは当然のことであった。むしろ観念論を説く者が煙たがられた。
しかし時代が流れ、日本も力をつけ、社会が安定して来ると一転して観念論者が台頭してくる。財政規律を説く者や「神州不滅」を唱える人々である。日本経済の競争力を高めるためと言って、不況下で円の切上げや、財政支出を削減を行い、不況を一段と深刻にした政権もあった。第二次世界大戦前夜の日本は観念論の花盛りである。観念論者同士が闘っていたのである。このような雰囲気の中では、現実論を説く者はビジョンのない「うつけもの」と見なされた。唯一の例外は、国債の日銀引受けを実現させ、銀行のデフォルトを食い止めた高橋是清ぐらいである。
たしかにこの時代には他にも現実論者はいたはずである。しかし彼等の意見は封殺されていた。なぜなら新聞など、マスコミ自体が今日と同様に観念論者に支配されていたのである。またこの時代の一つの特徴は、アジテータの一般庶民への影響が強かったことである。筆者のある知人は戦後生まれであるが、アジテータと同じ名である。親父さんがこのアジテータの心酔者だったからである。
戦前においては、このマスコミとアジテータの動きが、世論の動向を決めていた。例えば開戦もこの両者の影響が大きかった。政治や軍部は、一般国民の熱情と言うものを抑えられなくなったのである。このように第二次世界大戦への参戦は、軍部がリードしたと言う一面もあるが、一般の国民の意向を強く反映しているのである。最初は消極的であった海軍も「国民の金をこれだけ使ったのに、戦争をしないと言うのでは申し開きが立たない」と開戦に同意したのである。
ただ筆者は、一般庶民の考えは複雑であったと想像する。国民の本心を言えば、「戦争なんかごめん」と思っていたはずである。しかしマスコミとアジテータに煽られ、いつのまにか「戦うべし」と言う「空気」が醸成されていったのである。このような雰囲気になれば、合理的な判断と言うものはなくなる。一部の醒めた人々はこのような世の中の動きを「苦々しく」見ていたと思われる。
今日の状況は戦前に極似している。合理的な議論はほとんどない。「構造改革」騒ぎもその一つである。「構造改革なくして景気回復はない」と言うセリフほど非合理的な言葉はない。しかしマスコミを始め人々は、何も考えずこれが真実と見なしている。「景気回復のために改革を急ぐ必要がある」と言うばかげたことを言う者も現れるしまつである。論理的にも「構造改革」を進めることは、反対に景気には確実にマイナスである。マスコミとアジテータの影響で、世間の人々はこの大嘘が本当のことと信じこまされているのである。驚くことには、日本では首相自身がアジテータなのである。構造改革とやらが進んでも、景気が良くなるどころか悪くなった場合には、一体誰が責任を取るのであろうか。
どうしていつも日本がこのような状況に陥るのか興味がある。これについて筆者は一つの仮説を持っている。安定した時代が進むにつれ、社会においてエリートと言われている人々が、あらゆる分野の主要なポストを占めるようになるからと言う説である。日本のエリートとか秀才と言われている人々は、いわゆる受験秀才である。日本の場合、自分の優秀さを示すには、試験で良い結果を出す他はないのである。したがって日本の秀才は試験をよく受ける。大学受験に始まり、大学院の入学試験、留学生試験、司法試験そして公務員試験である。
しかし日本のエリートと言われている人々の多くは、現実感のない観念論者に陥りやすい。彼等とっては、教科書に書いてあることが絶対である。教科書に書いてあることが「嘘」とは考えない。教科書が間違っていると疑い始めると、受験勉強ができなくなるのである。彼等にとって教科書は絶対である。したがって現実が教科書と違う場合は、現実が間違っていると断定する。教科書が間違っているとは絶対に考えない。そして間違った現実を教科書通りに矯正する方法の一つが今日はやりの「構造改革」である。
筆者は、以前公務員試験の経済学の問題と解説を本屋でちょっと読んだことがあるが、その内容はすさまじいものであった。その時、筆者は、公務員がこのような事柄を真実と考えていたなら大変だと思った。
そもそも経済学の主要テーマは、限られた資源からいかに多くの生産物を効率的に生産するかである。そして伝統的な経済学では、規制をなるべく撤廃し、競争を盛んにすることが、資源の効率的な分配を可能にする方法としている。またより高い経済成長もより効率的な資源配分で実現できるとしている。しかしこれはいわゆる物がなかった時代の産物であり、考え方である。また人の欲求は無限と言う仮定ももはや現実的ではない。今日の日本ように物が余り、むしろ遊休設備と失業が問題になっているのに、効率的な資源配分なんて全く意味がない。今日の日本経済の状況は、どの教科書にも載っていないのである。
筆者は、現在学校でどのような経済学が教えられているのか詳しくは知らないが、おそらく教えられている理論経済学の知識の99%は、日本においては無駄と見ている。そして筆者の知る限りでは、日本の経済学者が今日のデフレ経済に対して有効な政策やビジョンを示したケースは皆無である。むしろ彼等は、日本経済をさらに窮地に追込むことばかり言っているのである。だいたい今日の経済学者自身が、現実の経済を知らない観念論者ばかり(ごく少数の例外を除き)であり、受験秀才そのものなのである。現実の経済に興味や問題意識が全くないのに、経済学者になった人々が実に多いのである。
戦前は、帝大や陸大出身のエリートが国の主要ポストの全てを占めた頃から日本はおかしくなった。特に陸大では、一般の庶民から隔離された所でエリートを養成した。彼等は、国民を将棋の駒と見なすよう教育がなされた。「一億玉砕」「特攻隊」と言ったことも、このような教育の産物である。もしかれらが国民の痛みが解る人々なら、戦争への道を躊躇したと思われる。さらに戦争を始めてからも、もっと早い段階で降服していたはずである。
敗戦で戦前のエリートはきれいにいなくなった。しかし戦後も40年、50年も経つと新しい観念論者のエリート達が色々の分野の主要ポストを占めるようになったのである。政界、官界、財界だけでなく、労働界まで観念論者の集まりになった。政治の世界では、世間知らずの二、三世議員である。おかしなもので、政治家も年寄りの方が現実的であり、若いほど政策新人類と言われるようにより観念的である。戦後、人々と苦労を共にしてきた老齢の政治家の方が、現実的な思考をしているのである。
ところで誤解してもらうと困るのは、筆者が全ての二、三世議員や公務員試験を通った官僚をやり玉にあげているのではない。実際、故小淵元総理のように二世議員であっても苦労をした現実主義者もいた。また決して官僚の全てが観念論者と言うことはない。反対に極めて現実的な人々がいて、これらの人々は真剣に日本の将来を心配している。しかし今日の状況では、なかなかこのように現実的な思考をする人々が表に出てこれないのである。むしろ現実主義者が、「守旧派」とマスコミにののしられているのが今日の状況である。
小泉首相は「国民には二、三年我慢してもらうが、それからは良くなる」と全く根拠のない話を得意げに行っている。そしてこの人物は、国民が既に相当痛みを堪えていることが全く眼中にない。彼はアジテータとしての自分のスタイルだけを気にしているのである。日本にとって第二次世界大戦は三年半以上続いた。もし小泉政権が三年半も続けば、日本は壊滅状態になることは必至である。 ところで最近本誌に対して、各分野の方々から、小泉政権に対して批判的な論調に賛成と言うメールをいただくことが多くなっている。このように日本においては、まだ声は大きくはないが、現実的な考えの方がまだまだいらっしゃることが分るだけでも救いである。
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