- 構造改革の意味
気が進まないけれど、今週号でもまた構造改革を取上げる。あまりこのテーマを取上げたくないのは、構造改革と言う言葉が持つ曖昧さが気になるからである。経済が不調になると必ず「構造改革が進んでいないから」と発言する識者と言われる連中が現れる。まず「構造」とか「構造改革」と言う言葉があまりにも安易に使われていることが問題である。また構造改革が進まないことが、直ぐに「抵抗勢力の存在のせいにされており、この抵抗勢力が既得権益を守るために改革の邪魔をしている」とされる。
筆者にとっては、このような単純な話のどこまでが本当なのか疑問である。もし本誌のように構造改革と言うものにあまり関心がなく、構造改革と言われているものに時として反対すれば、抵抗勢力あるいは守旧派とレッテルを貼られるのであろう。しかしはっきりさせておきたいのは、本誌は守る必要のある既得権益なんて何も無いと言うことである。
むしろ筆者は、「構造改革」を唱えている人々が、窮地に陥った経済に対して有効な対策やアイディアを全く持ち合わせていないことを指摘しておく。アイディアがないから単に「構造改革」と騒いだけである。さらにこれははっきりさせておきたいことであるが、「構造改革」が必要かどうかを別にしても、「構造」と言うものは簡単に変化しないから「構造」と言うのである。簡単に変更できるようなものは「構造」とは言わない。
さらに「構造改革」が変化することによって経済が良くなるかどうかも不明である。「構造改革」の変化によって、経済が良くなると思い込んでいるだけと考えられる。また「構造改革」が可能性かどうか自体も問題になる。かりに可能としても関係者の間で利害が対立し、事実上、変更ができないと言う結論になることもあり得る。このような場合、往々にして両者のどちらの言い分も正しいと受取られるケースも多い。
経済や社会の「構造」とか「構造改革」と簡単に言うが、これらはその国や社会に根差したものである。つまり筆者は、その国の長い歴史や国民性、さらには人員の構成と言ったものが、その国の「構造」を決定すると考える。したがってこれらの要素がもととなって出来上がっているそれぞれの国の「構造」と言うものは、ちょっとやそっとでは変化するはずがないと言うことである。
たとえば移民、つまり他人同士の集まりで出来上がっている米国と逃場のない島国に長い間暮らしてきた日本では、国民の社会や経済に対する価値観はかなり違う。やはり日本の方が人々の間の調和と言うものが重視される社会である。また他の国に先駆けて高齢化・小子化の進んでいる日本と、人口爆発が続く発展途上国やちょうどその中間に位置する米国とでは、国民の消費に対する意欲に大きな違いがある。
これらの他に、中央政府と国民の力関係や会社経営と労働組合の関係などに話を広げると、数えきれないほどの色々な要素が国によって異なり、これらがその国の経済にも大きな影響を及ぼしている。原子力発電一つをとっても、中央政府の力の強い国、たとえば仏などはどんどん発電所を建設しているが、米国のように国民一人一人の声の大きい国では発電所の建設はストップしている。また日本のように、少数の農家の反対で国際空港の拡張がストップしている国もある。また労働組合が会社経営に深く関わっているドイツのように、人員削減を伴う合理化が難しい国もある。さらに先週号で取上げた日本の企業を巡る互恵関係の強さと言ったものも独特なものである。
このように話を具体的に見てくると、社会の構造と言うものが、簡単には変わるものではないことが分かるはずである。ところが日本の構造改革派の人々は、政府の決断一つで「構造」と言うものが変わると喧伝しているのである。そして「構造改革」が進まないのは、守旧派が自分達の利益を擁護しているからと単純に決めつけている。筆者に言わせると、彼等は単に世間のことをよく知らないだけである。
とりあえず筆者は、構造改革派の大罪を三つ指摘しておく。一つは時間の無駄と浪費である。「構造」と言う、各々の人が捉え方さえ違う事柄を取上げ、これを改革すると言う、まさに「雲を掴む」ような話である。おそらく今後政府関係者の間で延々と訳の分からない議論が続くはずである。しかしその間にも経済をめぐる状況は悪化しているが、政府の対応はかなり遅れることになる。実際、不況の深刻化、金融不安、対中国との貿易問題など大きな問題が今日めじろ押しである。ところが政府は当分の間機能しない。政府の空白時代が始まっているのである。
二つ目は、経済問題の核心から人々の関心をそらすことである。日本経済不調の原因は、話題になっているような「構造」(だいたい問題にされている事柄自体が構造と呼ぶのにふさわしいか疑わしい)の問題ではなく、「国民の過剰貯蓄」である。これではいつまで経っても状況は変わらない。 最後の問題は、構造改革として取上げられている事項を実行すれば、反対にもっと経済が悪化する可能性が強いことである。改革を行って2,3年すれば、経済は蘇ると言う事態は全くあり得ないことである。
- 道路公団の話
次に構造改革(今日世間で言われている構造改革)が、経済に却って悪影響を及ぼす可能性が強いことを検証してみよう。小泉政権が行おうとしている構造改革と言うものの中から適当に一つだけ取上げる。道路公団と高速道路の建設が分かりやすいので、これにする。だいたい道路公団の民営化や高速道路の建設を中止することが、どうして構造改革になるのか筆者には理解できないが。
まず道路や橋と言った公共物を通行するのに料金を払うと言うこと自体がおかしい。たしかに今日、外国でも有料道路と言うものが増えてきているが(どうもアジアの国が多いようである)、おそらくこれは日本のマネをしたのではないかと筆者は考えている。本来、道路とか橋の通行は無料と言うことが原則であったはずである。
高速道路の有料化を最初に言出したのは田中角栄元総理である。高速道路の建設が始まる時、つまり東京オリンピックのずっと前の話である。当時の日本の交通インフラの整備状況は非常に劣悪であった。ところが政府には全く金がなく、これではいつになったら諸外国のような高速道路網ができるのか分からない状態であった。そしてアイディアマンの田中元総理が目をつけたのが郵便貯金であった。しかし財源を郵便貯金、つまり財投資金に求めると言うことになれば、元利の返済が伴うことになる。そこで高速道路を走る車から料金を取ることを田中元総理は考えたのである。
しかし道路の通行料を取ると言うこのアイディアに、当時の建設省の役人は猛反発した。そこで田中元総理は「隅田川の勝鬨橋」で通行料を取っている事例を持出し、役人を説得したと言う。これには役人もまいったと言うことである。これらはある雑誌で読んだ話である。つまり通行料金を高速道路の建設費に充てると言う方策は、国債を容易に発行できなかった時代の苦肉の策であったのである。そしてこれ以降、日本の高速道路の建設は軌道に乗ることになった。
高速道路も大都市を結ぶものは採算が採れる。しかし建設が地方に及べば交通量も少なくなり、だんだん採算を取るのが難しくなる。このような現象を一種の「収穫逓減の法則」と言うのかもしれない。問題は今後の高速道路の建設である。
今日、通行料のプール制によって、黒字の幹線高速道路の利益を地方の高速道路の建設費に充てている。しかしこれも徐々に限界に来ている。そして最近では、郵便貯金(財投資金)への利払いの一部を国費で補助している形になっている。さらに採算の難しい高速道路については、国費を投じて建設するようになって来ている。これは「高規格道路」と言われ、端的に言えば「国道」である。また高速道路建設のかなりの部分を国費が負担しているケースもあるようである。要するに道路は国が国費で造ると言う原則に戻ってきているのである。
ところで国が国の予算を使って「高規格道路」を建設するのも、道路公団が高速道路を建設するのも、経済の観点から見てば大きな違いはない。財投(今後は財投債、財投機関債と形は変わる)の立場から見ても、「高規格道路建設」のための建設国債を買うか、それとも道路公団に高速道路建設のために直接融資するかの違いである。つまり国債の利息を得るか融資の利息を得るかの違いである。また「高規格道路」の建設を道路公団に発注すれば、建設風景も変わらないことになる。ただし「高規格道路」の場合には国家の予算と言うことになり、建設に当たっては国会の承認が必要になる。
いま世間では、道路公団が問題にされ大騒ぎをしているが、実態を見れば、このようにどちらでも良い話を「構造改革」(なぜこんなものが構造改革なのだ)と大袈裟に騒いでいるのである。たしかに道路公団の体質や子会社が問題(道路公団には国から補助金が出ているが、子会社は黒字)と言っているが、このような事はずっと昔から言われてきた事柄ばかりである。
ただし道路公団に色々問題があることと、今後、高速道路や高規格道路を造らないと言うことは全く別次元の話である。日本には過剰の貯蓄があり、これを経済の循環に戻してやる必要がある。この資金の還流ルートの一つが財投を通じての高速道路などの建設であり、一つが国債発行による高規格道路建設などの公共投資である。もしこのような道路を建設(地方によっては道路の整備が遅れており、道路建設の要望は非常に強い)を行わないのなら、構造改革を主張する人々は、この莫大な日本の過剰貯蓄を一体何に使おうと言うのであろうか。もしこの貯蓄が何にも使われないないとしたなら、日本経済は縮小均衡に入ることになる(既に入っていると思われる)。つまり改革を進めると言うことが、過剰な貯蓄を経済の循環に戻さないと言うことを意味するならとんでもないことになると考える。改革を進めれば2,3年で日本経済は蘇るどころか、2,3年もしないうちに日本経済は壊滅する方向に進むことになる。
小泉政権の言っている「構造改革」とは、今週号で取上げた道路公団の問題のように、どちらにころんでもマクロ経済上ではどちらでも良いような問題ばかりである(もう一つの構造改革と言われている銀行の不良債権問題は別途取上げる)。また「郵便貯金の民営化で、特殊法人への資金の流れを断つと」と言っているが、ではその分の資金を一体何に使うと言うのか。民間の銀行も資金の運用先がなく、国債ばかり買っているのが現状ではないか。
あえて筆者が、日本経済が抱える構造上の大きな問題を一つ指摘すれば、慢性的な過剰貯蓄、つまり需要の不足である。しかしこの構造は、簡単に変わるものではない。まさしくこう言うものこそ構造と呼ぶのにふさわしいものである。筆者の感想では、構造と本当に呼べるものの99%は、政府の政策なんかで変わることはない(独裁国家なら別であるが)。「構造」とはちょうど人の性格みたいなものである。つまり構造と言うものは変わりっこないのだから、政府は、構造を変えようとするのではなく(繰返すようだが、変わらないから構造なのである)、この構造を前提に政策を策定し、実行すべきである。
ビートルズには「Let it be !」と言うヒット曲がある。日本語に訳すれば「あるがままにしておけ」と言う意味になるのであろうか。まさしく「構造」と言うものは「あるがまま」にしておき、問題を解決することが政府の役目である。だから今日の政府の仕事は難しいのである。インスタントに「構造改革」で問題は解決すると言っている連中は、「自分はばかだから何のアイディアもない」と言っていると捉えれば良い。
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