- 対談の要旨
日頃、時間的な余裕がなく読み損ねていた月刊誌を、年末年始にかけてまとめて読んだ。その中には、当コラムにも取上げるのが良いと思われる題材がいくつかあった。その一つが、今週号で取上げるポール・クルーグマン教授とリチャード・クー氏の対談である。これは文芸春秋11月号に掲載されていたものである。この対談の題名「日本経済、円高は悪魔か」から分かるように、昨年の夏場からの一段の円高傾向を受けての企画と思われる。しかし論議の大半は、今後日本政府が採るべき経済政策、つまり景気対策の方法について費やされていた。 14ページにわたる対談の全てをここに掲載することは無理なので、まず両者の発言のポイントを筆者なりにまとめ、それを簡単に述べることにする。
リチャード・クー氏 企業や個人のバランスシートは、バブル崩壊に伴って相当傷がついている。このような状態では、今日の低金利でも、人々は債務の返済を優先し、投資は伸びない。したがって現状では金融政策だけでは限度がある。したがってバランスシートの改善が済むまで、大胆な財政出動により景気の下支えを行うべきである。
ポール・クルーグマン教授 当分財政支出による需要の喚起も必要であるが、これにも限度がある。また日本は現在深刻なデフレの状態である。そこで今一番必要なのは大胆な金融の緩和である。
まず日本の経済の深刻な現状については、両者の認識は一致している。また日本の経済は流動性のワナにかかっており、金利政策の有効性が失われていることについても両者の意見はほぼ一致している。 しかしそれに対する政府が採るべき政策について、両者の間に大きな相違が存在するのである。リチャード・クー氏は一段と大胆な財政支出を、そしてクルーグマン教授は、金融政策の有効性が小さくなっていることは承知しているが、一段と大胆な金融の緩和を柱にすべきとそれぞれ主張している。特にクルーグマン教授は持論の「調整インフレ」の必要性を強調している。
日本においては昔から、不況時の景気対策について何を重点に行うかがいつも議論になった。ちょうど両者がここで議論しているようなことが、日本ではこれまでも何度となく論争のテーマとなったのである。 従来は、日本の経済が金利の動向にあまり敏感に反応しない体質にあり、景気対策の柱はやはり財政政策と言うのが一般的であった。たしかに最初に機動性に富む金融政策、例えば公定歩合の引下げが行われが、これはこれから景気対策を行うと言うアナウンスメント効果となるが、本格的な景気対策は予算の執行を伴う財政政策であった。 例外的なのは、プラザ合意以降の円高不況時の景気対策である。当時、財政再建に固執する財政当局は、財政出動による景気対策をある程度渋った。その分金融政策の負担が大きくなり、これがバブルの原因ともなった。
両者の主張には大きな違いがある。これは両者の日本経済の現状の見方が異なるからと筆者は考えている。つまり議論する上で、両者が想定している前提条件に違いがあるからである。リチャード・クー氏はこれ以上の金融緩和は無効と考え、財政政策に重点を置くべきと考えている。一方、クルーグマン教授は、たしかに日本は流動性のワナにかかっているが、人々が想像する以上の大胆な金融緩和を行えば、必ず効果があると考えている。そして財政政策だけでなく、日銀の一段の金融緩和が必要と主張しているのである。
両者の議論は、この一点、つまりこれ以上の金融緩和が効果的であるのかどうかで白熱する。バランスシートの改善が済むまで、どれだけ金融緩和を行っても、準備預金が積み上がるだけで、実体経済には影響を及さないとリチャード・クー氏は主張する。これに対してクルーグマン教授は、全ての企業や人のバランスシートがバブルで傷ついた訳ではないのだから、金融の量的緩和は必ず効果があると反論する。さらにこれに対してリチャード・クー氏は、土地などの資産価格の下落が続いている現状では、余裕のある者も投資を控えており、どれだけ金融緩和を行っても、資金需要はないと反論する具合である。
- 筆者の感想と意見
両者の議論は、他に為替動向や米国の日本の経済政策に対する姿勢などにも及んだが、これらの具体的な内容については割愛する。ところで両者のような有力なエコノミストの議論に、筆者ごとき者がコメントするのはおこがましいと承知しているが、筆者にも若干の意見があり、それらをここで述べることにしたい。
どちらの考えが正しいかと言えば、筆者の考えでは、それはリチャード・クー氏の方である。まさに正論である。しかし両者の考えを同時に実現する方法もあると筆者は考える。大きな財政支出を行い、それに伴う国債を日銀が直接引受けるのである。これにより財政政策による需要の増加と、仲介機能が不全になっている銀行を飛び越え、市中に資金を供給することが同時に実現するはずである。しかしリチャード・クー氏は国債の日銀引受けの可能性については、どうも触れたがらないようである。筆者は、国債の大量発行と言うことになれば、どうしても日銀引受けと言う話が浮上してくると思われる。筆者は、リチャード・クー氏がニューヨーク連銀、つまり中央銀行の出身と言うことが影響し、どうしても中央銀行による国債の引受けと言う事態に抵抗があるのではないかと考えている。
ところで先週号でも述べたように、小渕政権の経済政策への風当たりが急激に強くなっている。これに呼応して、橋本政権下で財政再建を推進した者まで、色々なメディアで小渕政権の経済政策を非難し始めているのである。したがって残念ながら、筆者にも正しいと思われるリチャード・クー氏の主張する財政支出だけを中心にした政策が、今後実現する可能性が極めて小さくなったと考える。新年度の予算案が景気対策として中途半端なのも、このような「空気」に、政府自体が既にかなり支配されている影響と考える。
このような状況では現実的に、効果については未知数と思われるが、クルーグマン教授が主張する金融政策を推進する他はないのではないかと考える。つまり正しいのはリチャード・クー氏の政策であるが、実行性まで考えると、クルーグマン教授の政策に軍配を上げざるを得ないのである。教授が主張するように、経済の浮揚に有効と思われる政策は取りあえず行うべきと言う前向きの考えにも、筆者は賛成である。現在の日本の経済の状態はちょっと過去に経験のないものである。このような状況下においては、「財政支出の縮減」とか「ペイオフの実施」と言った明らかに景気にマイナスとなる政策を除き、有効と考えられる政策をまず実行してみることが大切である。
昨年の後半から日銀の頑な姿勢に対して、内外から非難が集中した。その影響もあってか、日銀の政策も少し様相が変わってきた。2,000年度問題の関係で、各国の中央銀行は年末に市場に潤沢な資金を供給した。そして年始にこの問題がクリアされたのを確認した後、市場にダブついている資金の引揚げに入った。日銀も同様に資金の引揚げを行ったが、そのペースを各国に比べ遅くしており、実質的な金融緩和を行っている。このことが為替動向にも微妙に影響を与えているらしく、多少為替も円安で推移している。以前、日銀は一段の金融緩和は市場に資金がダブつくだけで効果がないと主張していたはずである。しかし、金融緩和を続ける姿勢を示すことによって、市場心理に影響を与えることもあるのである。
つまり教授の発言のように、効果があると思われる政策は次々にやってみることも必要と言うことである。筆者が本誌99/11/15(第139号)「金融のさらなる量的緩和」で述べたように、機能不全に陥っている銀行を飛び越えて直接市中に資金を供給する方法も色々と検討すべきと考える。
筆者には、ポール・クルーグマン教授は、米国において対日の経済政策要求に関わるオピニオンリーダ的な存在と思われる。日本の経済政策対しては、米国政府高官だけでなく、有力経済学者までもクルーグマン教授と同様の主張をしている。サミュエルソンやソローは日銀による長期国債の買いオペの増額や直接購入まで主張しているのである。
両者の対談でちょっと気になったことを少し述べることにする。一つは、クルーグマン教授の発言から、日本の銀行が機能不全に陥っている現状をあまり理解していないのではと言う印象を受けたことである。このため両者の間の議論がちょっと噛み合わないところがあった。一方、リチャード・クー氏の主張している「92,93年はまだインフレでデフレは97年から始まった」と言う意見には異義がある。筆者は、これについて日本経済の場合は、資産を含めて物価の動向を見るべきと考える。そして地価が92年度から下がり始めているのであるから、日本は93年頃から既にデフレ経済に入ったと考える。またリチャード・クー氏が構造的な円高の原因を市場の閉鎖性としていたことに対して、即座にクルーグマン教授はこれを否定した。教授は、この原因を日本が大きい経常収支の黒字を続けていることが、円の保有が将来の大きい収入を期待させるからと指摘している。これについては教授の考えが正しい。
ところで両者は、日本は流動性のワナにかかっていると意見が一致している。しかし筆者は、これには全面的に賛成することができない。立軸に名目金利を採った場合と実質金利を採った場合、さらに土地などの資産価格の動向を加味した実質金利を採った場合によって、それぞれ流動性選好線の形状が変わってくるからである。これについては別の機会に述べることにする。
最後に、筆者の感想を述べたい。まずこのように日本経済の再生について、真剣な議論を行っているのが、両者とも米国人と言うことである。一方、日本のエコノミストは「ペイオフの延期はけしからん」など、まことに間抜けたことばかり言っているのである。さらにこのような価値ある対談が、経済の専門誌ではなく、文芸春秋と言う総合雑誌で行われていることである。日本はどこか狂っているのではないか。
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