- 為替動向と当局の金融政策
今週号では、本題に入る前に最近の為替の動きと当局の対応について述べたい。まず、以前からの本誌の為替動向の見方は、中長期的には「円高」であり、今の為替動向自体はむしろ納得できるものである。ただ筆者の予想より少し早く円高の進行が始まったとは感じている。 先月述べたように、筆者は、110円前後が為替の均衡値と考えており、現在の数値がとりたてて高い水準とは思わない。しかし円高は景気回復にマイナスと言うことは間違いない。さらに相場と言うものは常に行過ぎる危険があり、対応を間違えると、95年の超円高の再現と言った事態も有りうる。
為替水準が行過ぎる場合には、たいてい「投機資金」の動きが伴うものである。米国の株価も長く膠着状態が続いており、投資家も思うように利益を上げていないはずである。彼等の目が日本に向くのも自然である。そして今後「投機資金」の動向によっては、とんでもない水準まで為替が動くことが考えられる。過去の経験から分かるように、日本の単独介入だけでは、この動きは阻止できない。国際協調、特に米国の協力が絶対に必要である。
ところが米国の態度がはっきりしない。色々な考えや立場の人々がいて、為替政策への考えも異なっている。特に来年は大統領選挙があり、国内産業に目を向けるか、日米の政策協調を重視するかの選択で迷うところである。また一時の米ドルの独歩安から、円の独歩高に変わってきている。つまりドル安による国内物価などへの影響も限られるのである。したがって日本が考えるほどには、米国政府は為替動向についての関心が大きくはないと考えられる。 そうは言っても、円高がどんどん進み、日本経済が再びガタガタの状態になるのもまずいと考えるはずである。
そこで米国政府は、為替政策に協調した行動を採るため、日本に条件を飲ませることになる。既に米国政府の高官の発言から、この米国の条件と言うものは割りとはっきりしている。追加的な財政出動と一段の金融緩和である。つまり米国の要請は、財政政策と金融政策の両方が必要と言っている。
規模の問題を別にして、第二次補正予算が組まれることは間違いない。つまり財政政策についてはメドがたっている。問題は金融政策である。ところが、先日の大蔵大臣の申入にもかかわらず、日銀は「既に十分な金融緩和は行っている」と言って、一段の金融緩和を拒否している。むしろ「ゼロ金利政策」の見直しを模索しているのが実態である。もっともこれは、9月16日までの話である。
ところがこのコラムを書いている途中で、日銀が一転して量的な金融緩和の拡大する方向に変わったと言うニユースが伝わった。はたしてどの程度の金融緩和で、どの程度の効果があるのかはっきりしないが、方針の転換があるようである。これについては、為替介入資金の不胎化の問題を含め、さらに来週号で述べることになる。
景気浮揚政策において、財政政策と金融政策のどちらに重点を置くかと言ったことは、昔からの議論のテーマである。85年の「プラザ合意」以降の円高不況の対策は、やや金融政策に片寄った政策だったと筆者は考えている。財政当局が「赤字国債の解消」を目指していたため、財政支出をけちったのである。つまり安上がりの景気対策を選択したのである。その分金融政策の負担が大きくなり、結果として過剰流動性の問題が残った。資産価格の高騰と言うバブル経済の背景には、この過剰流動性が存在したのである。 しかし今日の日本では、資産価格の高騰と言う事態が起るとはとても考えられないし、そんなことを心配すること事態が異常である。むしろゆるやかな資産価格の上昇は、好ましい現象である。また万が一にも過剰流動性が問題になっても、以前に比べもっと適切な対処ができるはずである。
米国と日銀の行動がまだはっきりしてない状況では、為替相場は当分不安定な動きとなろう。そして注目されるのは25日のG7の結果である。ここではっきりとした為替安定策が打ち出されない場合には、大きく為替が変動する可能性が強い。 そもそも日本のような大きな経常黒字の国の為替を安い方向へ持っていくことは、論理的に矛盾した行為である。それを行おうとするのであるから、当局はよほど腰を据えて政策を行う必要がある。
- 社会的欲求と日本経済
ここからは先週号の続きである。日本では数々の理由で、消費に対する欲求と言うものが減退しており、消費より貯蓄を選好する傾向が強くなっている。しかしこれはあくまでも個人的な欲求に限った話である。住宅を除けば、たしかに日本は高い消費水準を長年続けており、個人的な消費への欲求は一応満たされている段階であろう。消費材の在庫も抱えており、品物を買っても置く所がないと言う状況である。通信衛星による多チャンネル化やインターネットと言う新しいメディアが登場しても、一日の時間は24時間であり、これらに振り向ける時間にも限度がある。睡眠時間も年々短くなっており、そろそろ限界である。
このように個人の欲求と言うものは各方面から制限されているのが現状である。しかし個人的な欲求とは別に、人々には社会的な欲求と言うものがあるはずである。 例えば「安全」「治安」「環境」などである。また「日本の誇り」みたいなものもこの範疇に入るであろう。そしてこれらを満たすために費用がかかるとしても、人々の多くはなんとなくそれに賛成すると思われる。
さらに社会的欲求をより具体的に述べると、次のようになる。「空気はきれいに、騒音を小さくしてほしい」「開かずの踏切を立体交叉にしてほしい」「満員電車をなんとかしてほしい」「ホームレスがいない社会にしてほしい」などである。 しかしこのような社会的欲求があることについては、誰でも理解するが、大きな声にならないのがこれらの欲求の特徴でもある。したがって政治家や政府も日頃からあまり真剣には取上げないのである。
ところでこのような社会的欲求も時として大きくなることがある。阪神大震災の後の都市の防災態勢の不備や昨年のミサイルが飛んできた時の防衛態勢の不備などである。もっともこれらも時間がたつにつれ、しだいに薄れて行くのである。このように社会的欲求と言うものは、通常は表面に出ないが、潜在的に強く存在する欲求と言えるであろう。潜在化した欲求はなかなか表面化しない。人々はそれに慣らされて、あきらめてしまったり、それが普通と考えるようになるのである。日本の地下鉄の速度が異常に遅いことや、満員電車が異常であることに、外国に行って初めて気が付くのである。学校の先生や警察官の電車での「チカン行為」は異常なこととして取上げられるが、満員電車が異常なことは取上げられないのである。
本来、社会的欲求はもっと表面に出て、政治の争点にもなるべきであるが、現実はそうなっていない。マスコミはこのような問題を日頃から積極的に取上げるべきと考えるが、実際はむしろ消極的である。筆者は、マスコミがこれに消極的な理由を、社会的欲求を満たすためには多くの公共工事を伴うからと考える。公共工事に否定的なマスコミは、むしろこれらの問題に触れることを避けるのである。
現在の日本経済は極めていびつな形をしている。内外には莫大な金融資産を持ちながら、満員電車に代表されるように交通インフラは極めて貧弱である。人々は、家の中にはブランド商品の在庫が山となっているのに、一旦地震が起り、火災が発生しても消防車が入れないような狭い路地に住んでいるのである。
公共投資には常に「採算」が問題にされる。しかし日本の金融市場は極めて低金利で推移している。筆者は、これはリターンが低い投資、たとへば社会資本への投資を促す市場からのサインと理解している。個人的欲求が小さくなった今日では、社会的欲求を満たす方向に資金が流れる必要があることを示しているのである。ところで公共投資と採算については、近々再び取上げることにしたい。
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