- 日本経済と小さな政府
「小さな政府論」や「供給サイド重視主義」を主張するエコミミストや経済学者、つまり新古典派の人々に関する一番の問題点は、新古典派の理論そのものが正しいかどうかを別にして、自分達の考えが、時代を越え、国を越え現実の経済に対しても有効と堅く確信していることである。しかしその国の経済の発展段階によって、適用できる理論が違うことがありうる。特に日本は、ある面では経済の発展段階が米国より先に行っていると筆者は考える。バブルの経験も日本の方が先だったし、社会の高齢化も日本の方が進んでいるのである。また経済の発展段階の話は、経済的豊かさとは別次元の話である。
まず今週号は、「小さな政府」と「大きな政府」のどちらの方が好ましいのかを論じることから始める。ただ、その前に経済における政府の働きについて整理しておく必要があると考える。筆者は、政府の働きには、制度的なもの、つまり法律や行政による経済の管理と、もう一つは財政がある考えている。世間では、よくこの両者をごっちゃにして論じられているのである。もっとも、「小さな政府」論者にとっては、はっきりしており、単純に両方とも小さい方が良いと考えており、両者をことさら分ける必要がないのかもしれない。とにかく彼等は、政府がなるべく経済にタッチしない方が、経済はスムースに発展すると言う考えである。
一方、筆者は制度的なものについては、なるべく政府の介入は小さくすべきと考える。たとえば産業政策は必要ないと考えている。また不合理な規制は撤廃すべきと考える。ただ今日残っている規制の中には、色々な考えや立場の人々の間の利害を調整しているものもあり、これらは単純に撤廃すれば良いと言うものではない。「大店法」などはその典型であろう。
政府が市場に直接介入しないと言う意見には、基本的に筆者は賛成である。ただし市場が自律的に均衡を取り戻せない状態になった場合には、政府の介入は認められると考える。市場には、一旦均衡値から乖離した場合でも、均衡値に戻ると言う性質がある。たとえばある物の価格が高くなれば、消費が減り、供給が増えることによって、価格は元の水準の近くに戻ると言う性質である。しかしまれには、均衡値からの乖離が、さらに大きな乖離を生むケースがある。そのままほっておくと市場そのものが破壊され、その影響が市場内にとどまらず、経済活動や市民生活に甚大な損害を及すことがある。このような場合は、政府の市場への直接介入も認められると考える。
このような観点から、均衡値から大きく離れた場合の為替市場への政府の介入も認められることである。また昨年の金融市場の信用不安が発生した際の、銀行への公的資金の投入も認められるケースである。一方、これに対しては、「小さな政府」論者達が、あくまでも公的資金の投入に反対していたのが印象に残っている。ところで日頃「小さな政府」論的発言を繰返していたはずの経済学者の一部が、突如、政府の公的資金の投入を支持する発言を、積極的に始めたのには驚かされた。日本の経済学者が信用されないはずである。 しかし、政府の経済への関与で、このような制度的な面よりも、もっと大きな争点となるのが財政の問題である。
どのくらいの財政規模が適正か、よく議論になる。そしてこのコラムを長らく読んでいる方は、筆者が「大きな政府」論者だと誤解しているかもしれない。しかし筆者は、決して単純な「大きな政府」論者ではない。筆者は、その国の財政や財政赤字の規模は、その国の経済状況によって変えるべきと考えている。日本のように消費に対する欲求が著しく小さくなっている国では、政府は財政支出を増大させ、不足する需要を補う必要があると考える。もしこれを行わなければ、経済が縮小するだけである。へたをすれば、止めどもなく経済が縮小する可能性もある。
一方、米国のように国民の消費意欲が異常に強く、貯蓄率がマイナスと言う国は、政府は財政支出を削減するのが合理的な政策である。結果的には、財政面では米国は「小さな政府」に向かっているのであり、これはむしろ自然である。さらに米国経済は、財政が黒字で、国債の発行が減り、金利が低下し、金利低下が経済の活性化にまたつながると言った好循環となっている。 このように現状では、米国のような国は、自然と「小さな政府」の方向に進み、日本のような国は「大きな政府」にならざるを得ないのである。
日頃から、米国国民の消費がどうしてこんなに旺盛なのか「謎」である。先進国の中ではめずらしいのである。本誌でもこれについて何回か、色々な仮説を立て論じてきたが、もう一つ分からない。そこで先週号からのテーマに沿って、もう一つ仮説をつけ加えてみることにする。
年間の人口増加率は、日本が0.4%なのに対して米国は1.2%である。ところで先進国の人口増加率は全般的に小さく、日本の増加率だけが極端に小さいわけではない。むしろ米国の人口増加率の方が異常に大きいのであり、人口増加率だけで見ると、米国はまさに発展途上国なのである。さらに米国には、毎年ハングリーな人々が移民としてやってくる。そしてこのような事情が、米国人の旺盛な消費の説明の一部にはなると考えられる。
とにかく発展途上国並の消費意欲のある米国で有効な政策を、年金からも貯蓄がなされているような日本へも適用すべきと考えるのこと自体がおかしいのである。昨年の減税論議もその一例である。「小さな政府」論者は、景気対策として公共事業より「減税」を強く主張していた。しかし米国ではほとんど消費にまわる減税も、日本ではほとんど貯蓄され、景気対策としての効果はさっぱりだった。国情の違いを無視した経済理論が、いかに意味がないものかが証明されたのである。
- 規制緩和の本質
日本では「小さな政府」論者は経済学者だけではない。日経新聞を始めとして、ほとんどの日本のマスコミの論調は「小さな政府」路線である。官庁も通産省を代表に「小さな政府」を標榜しているところが多い。政治家にも「小さな政府」を主張するものが多い。最右翼は自由党であり、民主党も基本的には「小さな政府」論者である。自民党の中にも「小さな政府」論者が多い。郵便貯金民営化の小泉氏や総裁候補の加藤氏などが代表である。加藤氏にいたっては「供給サイド重視」ととんでもないことを言い始めている。
どうしてこうなるのかと言う問に対して、筆者は、「小さな政府」論が一種のイデオロギーであり、宗教であるからと考える。以前のマルクス・レーニン主義の流行が、ソ連の崩壊によって、「小さな政府」の流行にとって変わられたと考えれば良いのである。ところでこれについてはまた別の機会に取上げたい。 昨今の政府の経済政策は「大きな政府」である。ところが政策遂行者の頭の中は依然「小さな政府」であるから、実施される政策も中途半端なものになるのである。
「小さな政府」論者がこだわるのは「規制緩和」である。「規制緩和」さえ行えば、競争が活発になり、経済が活性化すると主張する。もっともなぜ彼等が「規制緩和」になぜこだわるのか興味はある。すくなくとも日本では、「小さな政府」論者の主張する政策が有効ではない。ところが彼等は自分達の理論は決して間違っていないと思っている。そこで彼等は、理論が有効でないのは、彼等の考えの前提としている「市場の完全競争」が、現実には実現されてないからと考えるのである。つまり「規制緩和」が行われ、現実の経済が自分達の想定しているものに近付けば、きっと経済も自分達が学んだ理論の通りに動くと言う幻想を持っているのである。つまり自分達がかってに作った前提条件に、現実の経済を合わせなくてはならないと言う、とんでもない発想をしているのである。 とにかく筆者は、消費への欲求が乏しくなった日本において通常の「規制緩和」を行っても経済の活性化は無理と言う考えである。
彼等はそれでも、経済の活性化のためには「規制緩和」が必要と主張する。しかし彼等の「規制緩和」と言うのは抽象的概念であり、彼等が具体的なアイディアを持っているわけではない。筆者も通常の「規制緩和」の項目で経済を活性化させるものは思いつかない。もっとも本誌で何回も述べたように、筆者は「規制緩和」の経済効果はほぼ中立と考えており、すくなくとも日本おいては、通常の「規制緩和」で経済が活性化するようなことはないと考えている。
「規制緩和」が経済効果があるとしたら、「規制緩和」によって新しい消費物資や新しいサービスが始まり、それがとてつもなく魅力のあることが必要である。つまり人々がそれを購入するため、預貯金を取崩し、あるいは借金をし、はたまた壺に隠してあったお金を取出すほどの消費材の出現である。欲求が萎えた今日の日本で、消費の欲求を呼び戻すような消費材である。しかし残念ながら今の日本ではちょっと思いつかないのである。
それでも「小さな政府」論者は「規制緩和」が必要と主張する。しかし前述したように彼等には具体的なアイディアがない。しょうがないので、筆者が彼等に成り変わってアイディアを提供することにしよう。実は「規制緩和」で経済効果があるものはたしかにある。ただし通常の「規制緩和」ではない。 ズバリ、これらは「麻薬・覚醒剤」「売春」「カジノ」「銃」などである。たしかにこれらが自由化されれば、経済は活性化するであろう。壺に隠してあったお金も出回り、世間の景気も良くなるかもしれない。しかし、そこまでして経済の成長が本当に必要なのか考えさせられる。 石原都知事の「お台場カジノ構想」が話題となっているが、まさに日本中、アイディアがどんづまり状態なのである。
|