- 欲求と経済成長
筆者は、日本経済が「日本経済と欲求の限界」にぶつかっていると考えている。本誌でも何回か「消費の限界」と言うテーマでほぼ同様の事柄を取上げた。「欲求」は「消費」の根源と考えて良いであろう。「欲求」があっても金がなければ、消費はない。しかし日本人のように金があっても「欲求」自体がないため「消費」がないケースもありうるのである。
このような傾向が顕著に始まったのは、1,980年頃からと筆者は考えている。耐久消費材が各家庭に行渡った頃である。これ以降、需要といっても基本的にはこれらの買換え需要である。したがって、この頃から、不況時に政府が景気対策を行うことによって景気が回復しても、以前のような高い成長率は実現しなくなった。バブル期も景気が良かったのは大都市だけであり、日本全体では経済成長率もたいしたことがなかった。
飽食の時代であり、ダイエットが流行り、食料品が売れない。狭い住宅では、物を買ってもこれ以上置く所がない。他の人が買うので、自分も自動車を買ったが、乗る機会が案外ないので、新車はもう買わない。リストラが盛んな今日では、帰ってきたら机がなくなっているのではないかと、簡単に海外旅行にも行けない。このような日本の状況では、消費の伸びは期待できず、投資も増えない。したがって経済の成長も限られのである。
筆者は、経済の成長を決める決定的な要素はこの「欲求」と考えている。したがって日本を除くアジアの国々では、まだまだ消費に対する「欲求」と言うものは健在であり、条件さえ整えば、再び高い経済の成長は可能である。反対に、発展途上国であっても、保守的でこれまでの自分達の生活のスタイルを守ろうと言う人々が多い国では、条件が揃っても、欲求そのものがないため経済は成長しない。もっとも言い方を変えれば、このような国では経済の成長自体が必要ないのである。ちょうど日本の今日の状況に似ている。
ところで筆者のこのような考えは、伝統的な経済学に真っ向から反する。伝統的な経済学では人間の欲求は「無限」と考えている。したがって大多数のエコノミストは、物が売れないのは、すぐ「売る方の工夫が不足している」とか「規制あって売れる物が供給されていない」からと主張する。また極端な者は、「供給が需要を上回れば、価格は低下し、売残りは解消するはずである」と不況そのものもあり得ないことと考えるのである。特に後者の中には、96年の景気回復の原因は「ディスカウントショップなどによる価格破壊」による消費の拡大と主張する者もいるから驚きである。さらに最近では、不況脱出のカギは「100円ショップ」と言う論調の新聞もあるくらいである。
十歩も百歩もゆずり、人間の欲求は「無限」と言うことを認めても、日本においては人々の消費への欲求があまりにも弱いため、将来の不安への備え、つまり貯蓄への欲求に負けてしまっているのが現状と、筆者は考えるのである。もっともここで話をしているのはお金のない人々のことではなく、お金を持っている人々のことである。
来年から高金利時代の郵便貯金の満期が来る。この資金の行方が注目されている。特に預け入れ限度額を越える分である。 これらが消費に回ることはまず期待できない。また株式市場やベンチャー企業に流れることも考えにくい。また銀行金利も低く、ペイオフがどうなるか分からない。そうすればこのお金は、壺の中にでも貯えられることになるのであろうか。
- 新古典派の経済学
次の話の展開には、経済学の流れについての知識が多少必要である。筆者の理解の範囲でこれを簡単に説明しておくことにする。
「小さな政府論」、「財政均衡主義」そして「供給サイド重視主義」を主張するエコミミストや経済学者は、スタンスや重点の置き方に多少違いがあっても、一応「新古典派」に分類される。日本のエコノミストのほとんどはこれに属する。そして経済学の世界では、「古典派」と呼ばれるアダムスミス以来の伝統的な考え方の流れがあり、政府の介入を極端に嫌う傾向がある。経済を市場に委ねておけば、「神の見えざる手」で自然に調整されると言う考えである。かえって経済に政府が介入したり、規制を行うことは、この調整メカニズムを阻害すると言う考えるのである。
「古典派」の考えによれば不況はない。物が売れなくなれば、価格が下落するので、売残りはなくなる。失業者の発生もない。失業が発生すれば、賃金が下がるので、失業者はすぐに再雇用されることになる。消費が減り、貯蓄が増えても、金利が低下するので投資が増え、実物経済での需給ギャップはたちどころに解消されることになる。
ところが1,930年代には世界大不況が起り、現実に街には失業者が溢れたのである。「古典派」の考えでは説明がつかない事態である。ここに登場したのがケインズであり、彼は、よく市場が失敗し、不均衡が生じることを主張した。「賃金の下方硬直性の存在」や、「流動性のワナによって、金利低下しても投資が増えないケースがあること」で当時の不況を説明したのである。さらにケインズは、政府の財政支出の増大で有効需要の創出し、この事態を解決することを主張した。当然、「古典派」の学者との論争が起った。ところがこの論争の決着がつく前に、各国とも軍拡競争に入り、政府の財政支出が爆発的に増え、その結果有効需要も増え、失業問題は解決したのである。つまりはからずも、ケインズの考えが正しいことが証明されたのである。
第二次大戦後は、ケインズ経済学の全盛期であった。しかししばらくすると、伝統的な考え、つまり「古典派」の人々の巻き返しが始まる。たしかに市場は失敗することもあり、不況となって失業が発生する可能性あることは認めた。そしてその場合には、政府の財政政策で需要を喚起する必要があることまでは認めた。しかし政府の経済への介入を認めるのはここまでである。つまり伝統的な経済理論において、ケインズの考えのような政府の財政政策が必要なのは、需給ギャップが生じるような大不況の場合に限られるとしたのである。このような考えを「新古典派綜合」と称し、このような考えのエコノミストが「新古典派」と呼ばれる。
しかし伝統的な「経済に政府が介入したり、規制を行うことは、市場がもつ調整メカニズムを阻害する」と言う考えは根強く、「新古典派」の人々の発想も「古典派」に徐々に戻っていった。現在の「新古典派」の人々の考えは、ケインズへの反発もあってか、ほとんど「古典派」と変わらないほどである。特に彼等は各国の持つ大きな財政赤字を問題にし、「小さな政府」を主張する。さらに極端な大きな政府の代表のような共産国家が破綻したこともあり、やはり彼等は自分達の考えが正しいと考えるのである。
「新古典派」のエコノミストが現在主流派であり、彼等が活躍しているのが米国である。また最近の米国経済も順調であり、彼等はますます自信を深めているのである。今日、経済学の世界では、ケインズの考えに沿った論文は頭っから相手にされないそうである。 日本の経済学者の多くは決まって2,3年間米国に留学した後、日本に戻ってくる。米国では新古典派の「ありがたい教えを請う」のである。まるで「遣唐使」のようなものである。今日、経済学者の多くが「小さな政府」を主張するのもこのような背景があるからと考えている。しかし彼等は、日本の経済の実状を知っているわけではない。ただ米国の経済学を元に述べているだけである。 ところが現在行われている日本の景気対策は、ケインズの政策そのものであり、これが効果があってか景気も少し持ち直している。実に日本では、自分達が学んだことと全く反対の政策が行われている。真面目な経済学者ならノイローゼになっても仕方がないのである。
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