- ガバナビリティーの意味
筆者の記憶では、日本でガバナビリティーと言う言葉が使われ始めたのは、故三木氏が総理になった頃からである。田中総理がロッキード事件で失脚し、信用を失った自民党は危機感を持った。そこで副総裁の椎名悦三郎氏が、クリーンなイメージを持つ三木氏を首相に抜擢したのである。いわゆる椎名裁定である。三木氏も「晴天の霹靂(へきれき)」と驚きながらも、これを受託した。 しかし、三木氏の政治信条は「政治改革」であり、現実の政治の遂行は決して得意ではなかった。政界や官僚にも影響力は限られていた。力のない政治家ほど「政治改革」を主張するのは今も昔も変わらない行為である。しかし当時、問題は山積し、さらにオイルショック後であり、日本経済も不振であった。ついには田中前首相の追求にしか興味を示さない三木首相から、有力政治家は離反を始めた。いわゆる「三木おろし」である。ところで三木総理については政権の発足まもない時から、盛んに「三木総理はガバナビリティーがない」と言う指摘が各方面からなされていた。そしてこの頃から日本では、力がない指導者に対して、「ガバナビリティーがない」と言う表現が使われることが定着したのである。現在でも同様の使われ方は続いている。 ところがある雑誌に日本での「ガバナビリティー」の使われ方が違うと指摘するエッセイが載った。エッセイの作者はある英語学者(名前は覚えていない)であった。彼は、「ガバナビリティー」はgovernableの名詞形であり、governableは支配あるいは管理できると言う意味である。この英語学者は、この言葉を「支配する方」か、あるいは「支配される側」のどちらに使うかと言うことを問題にしていた。日本では「支配する方」に使っているが、正しくは「支配される側」に使うとこの学者は指摘していた。 彼の説のように、「ガバナビリティー」は「支配される側」、つまり国民や人民の支配、あるいは統制される能力を意味するとすれば、話は大きく変わってくるのである。支配者、例えば政府が近代的な法律を制定しても、国民の「ガバナビリティー」が小さいと、せっかくの法律も守られないのである。思い当たる国はたくさんあるはずである。 では日本国民はどうであろうか。筆者は、日本国民は極めて「ガバナビリティー」が大きく、高い国民と考えている。比較的に法律は守られており、女性が夜間一人歩きができる数少ない国の一つである。自動販売機もめったに壊されない。交通信号も守られている。さらにお上、つまり政府が決める事柄には、不満があっても従うのが日本人である。 消費税導入時の外税採用にも不満ながら従ったのである。当局は途中から内税でも良いと方針を変え、さらにこの頃では内税に統一すべきと言う声がようやく政治家から出てきた。とにかく最近ではついに本屋でも外税採用により、一円玉のおつりをもらうようになったのである。消費税導入後の参院選で自民党は大敗したが、筆者は敗因の半分は、消費税そのものより、消費税を外税で導入したことであると考えている。帳簿方式を採用しながら、多くの企業では今だにエンピツ一本買っても、本体価格と消費税を別々に集計しているのである。消費税の実際の税額は、納税担当者だけが知れば良いことであり、膨大で全く無駄な作業を国民全体で行っているのである。観念論者は、国民は消費税の税額を知ることが大切と言って外税を主張する。しかし税額を買い物の度に正確に知っても何の意味がないのである。そして2年前の税率アップも何の抵抗もなく通ったのである。むしろ業者は最終的に必要な値段を表示すべきである。また税金は消費税だけではないのである。 「ガバナビリティー」が大きい国民性を当てに、郵政省は郵便番号を二桁増やした。国民は几帳面にこの新しい郵便番号に対応しているのである。コンピュータのデータベースもメンテナンスを行った。これは郵便事業の合理化のためと言う話であったが、郵便料金が下がったわけではない。実際、当初から合理化効果は小さいことは分かっていたのである。桁数増にもかかわらず、郵便事業の採算は良くなっていないはずである。郵便料金もそのうち上がると考えておいた方が良い。ちなみに米国でも同様の郵便番号制度はあるが、あまり守られていないそうである。このように「ガバナビリティー」の大きい日本国民は、官僚の浅はかなアイディアで結構苦労を強いられているのにもかかわらず、だまって耐えているのである。 ところが最近、政府は「サマータイム」の導入を検討していると言うから驚きなのである。「サマータイム」は、4月から9月まで時計を一時間早め、社会全体をそれに合わせる制度である。たしかに欧米ではほとんどの国は、この制度を採用している。ただし日本では終戦後導入したが定着せず、すぐに廃止した制度である。
- 「サマータイム」の効果
当初、この「サマータイム制」は連休明けにも超党派の議員立法として法案を提出する方針であり、5月中旬には一気に成立をはかりたいと言うことであった。しかし最近、あまり「サマータイム」の話題がマスコミに載らないことを見ると、多少紆余曲折があるようである。ところで筆者が問題にしたいのは「サマータイム」そのものもさることながら、「サマータイム」導入の過程である。 「サマータイム」を推進する側は、総理府の調査で昨年初めて「サマータイム」を支持する人が5割を越えたことを一つの根拠としている。しかし調査対象となった人々がはたして「サマータイム」を理解した上で賛成しているのか疑問である。よく似た例は「ペイオフ」の導入である。日経新聞に「ペイオフ」に関する調査結果が載っており、大半の人が「ペイオフ」に賛成していると言う奇妙なタイトルであった。しかしよく読んでみると、「ペイオフ」のことを比較的正確に理解していた人々は、調査対象のわずか2割から3割と言うことである。これでどうして「大半の人がペイオフに賛成」と言う記事のタイトルになるのか不思議である。筆者はむしろ2,3割の「ペイオフ」のことを正確に理解している人々だけの調査結果を同時に公表すべきと考える。 「サマータイム」推進派の一大根拠は省エネ効果である。通産省の試算によれば、年間の省エネ効果は原油換算で50万トンである。問題はこの数字をどう捉えるかである。一般にこれを大きい数字と考える人がいるかもしれないが、筆者は極めて小さいと考える。年間の日本の総エネルギーの消費量は約4億トンである。50万トンはこのわずか0.125%に過ぎない。この数字は全く計算誤差の範囲内のものである。つまりこれからは、「サマータイム」は省エネ効果があるとはとても判断できないのである。さらに通産省はこの試算を作るにあたり、当初の数字を相当いじっていると言うことである。この50万トンと言う試算自体が怪しいのである。前提が変わればどれだけでも変わる数字である。つまりこの小さな数字さええんぴつをなめながら苦労して作ったものである。結論として「サマータイム」は省エネ効果がないと考えて良い。こような薄弱な根拠で、「サマータイムには省エネ効果がある」と結論づけること自体がおかしいのである。 3月20付の日経新聞には「サマータイム」に賛成するコラムが載っていた。これも「この50万トンの省エネ効果」と言う極めていい加減な数字を何の吟味もなく使っている。さらにOECDの中で「サマータイム」を採用していないのは、韓国、アイスランドそして日本だけと指摘している。先進国で「サマータイム」を採用していないのは日本くらいと煽っているのである。しかし他のOECDの加盟国はほとんど高緯度の国々である。夏場は極端に日が長く、冬場は短い。これの国々では日の長い夏場の時間を有効に使おうと言う発想である。つまり「サマータイム」の採用は極めて地理的な事情による。一方低緯度や中緯度の国で「サマータイム」を採用している国は皆無である。したがって「サマータイム」が先進国の明かしでは決してないのである。実際、隣の韓国も「サマータイム」を導入したが、たった2年で廃止した。 さらにアイスランドが「サマータイム」を採用していないことが注目される。アイスランドは欧州大陸と距離があり、元々時差があると考えられる。したがってこのめんどうな「サマータイム」の採用をあえて控えていると思われるのである。実際、「サマータイム」が一番適している産業は農業と考えられる。しかし現代社会においては、人々の行動時間が多様化しており、「サマータイム」は混乱を引き起こすだけである。したがって「サマータイム」自体を止めたい国があるはずである。 筆者が注目するのは、このように世論が操作されて行く様子である。まず役所が根拠の薄弱な試算を行い。次にいい加減な識者と言われる人々が、この数字を吟味せず、これに賛同する意見を述べる。さらに新聞が煽って、世論が形成されて行き、おっちょこちょいの政治家がこれに乗ることになる。財政再建論議の場合も全く同じであった。 日本国民はガバナビリティーが大きく、制度自体を導入さえすれば、多少の不満があってもうまく対応するものと軽く見られているのである。この結果、ほとんど効果もない制度が次々に導入されているのである。 コンピュータのメンテナンスが必要な制度改正が最近続いている。消費税の税率に始まり、郵便番号の桁数増、東京や大阪の市外局番、携帯電話番号の桁数増などが続いている。もちろん2,000年問題もあり、今後も製品バーコードの内訳変更が控えている。この上意味のない「サマータイム」を2,001年に導入しようと言うのであるから、これらの政治家や官僚の良識が疑われる。議員立法も「サッカーくじ」に続く、今度の「サマータイム」である。世間にはもっと深刻で緊急を要する問題が山積しているはずである。国会議員が、こんなことにしか興味がないとしたらまことになげかわしい限りである。
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